(4)
昨晩からじーと睨みつける碧に蒼はうんざりしていた。
朝も無言で睨みつけ、当番制の夕食―今回は蒼の当番―を作る際も睨みつけてくる。いい加減にしろと怒ると、むっすりとした顔つきで碧は腹に溜まった憤りや苛立ちを吐きだした。
「正樹が昨日変だった」
「正樹兄さんが?そうか?」
碧はさらに目を吊り上げた。吊り上げて、
「ごはん食べるときすごくびくびくしてた!蒼、絶対何かした!何したの?!正樹一緒に寝てくれなかったしっ」
「年を考えろ、年を。いくつだ?碧は」
「年なんて関係ないよっ!正樹はいつだって一緒に寝てくれたもんっ!」
地団駄を踏む碧を呆れながら見た。碧の憤りや苛立った姿を見て、「顔が近くにあったからキスした」、なんて伝えたら包丁を振り回す勢いだ。
「正樹のファーストキスは私のものなのにぃいい!」とか、「許さないっ許さないよ蒼!私はおでことかほっぺとか限定で、唇は二十歳なってからなっ!って言われてたのにっ!」とか、「私の正樹を傷物にした報いを受けなさいぃ!」とか。
ガチャガチャと音を立ててお皿を流し台へ置く。不機嫌な碧に戦々恐々しながら、咳払いで
ごまかす。
「そうやって誤魔化すの禁止!禁止だよっ。ほら、早く白状しちゃってよ!」
ぐいぐいと脇腹を指先で挿すように押す。
「ひぃ!や、やめろっみどりっ!」
「くすぐり攻撃~~~」
「ばか、水が飛ぶぞっ」
食器の洗い物を始めていた蒼はじゃれ付いてきた碧に注意した。しがた、碧は構わずさらにくすぐり始める。
「蒼、脇腹弱いよね~。あと脇も…」
不適に微笑んだ碧の姿に、蒼は妹に押し倒される兄の図を思い浮かべた。あと脇の攻撃だけは駄目だ。だから、
「わ、わかった!わかったから!言う、言うからっ!」
濡れた手の平を見せ、ストップと繰り返し叫ぶ。ふふん、と鼻を鳴らし勝者の笑みを浮かべた碧を苦々しく見つめ、「キスした」そう告げた。
笑みを浮かべたまま首をかしげ、
「なに?あんまり聞こえなかったよ」
今何て言ったの?そう問う碧に、やけになったように叫んだ。
「だから、正樹兄さんにキスしたっ」
「なんで!?」
叫び声に叫び声を返され、
「なんで、って」
そこに顔があったから。とか、頬をつままれて近づけられたからとか、色々言い訳を脳裏にめぐらせたが、碧の純粋に驚いた顔が、一瞬思案顔となった。
「蒼は、あの人と別れてから欲求不満?」
「ちがう」
とんでもない勘違いはやめてくれと怒る。怒ると、碧は険しい顔つきになった。
「正樹は、身体は女でも心って言うか精神は『男の人』だよ?蒼がどんなに好きになっても正樹は『男は無理』って言ってたよ」
「好きにって…」
「だってキスは好きな人しかしないでしょ?蒼はそうだったでしょ?」
あの人のこと、好きだったでしょ?どのくらい好きだったかなんてわたしは知らないけど。と、吐き捨てて碧は蒼を見つめた。
「正樹のこと女の人として好きになっちゃった?キスしたいくらいに?」
「っちがう」
「じゃあ、キスしたとき何思ったの?なに、考えてキスしたの?」
問い詰める碧の表情が固い。まるで、敵の考えを探るように――蒼を見つめる。蒼はその時、何を思ってキスしたのかと問われ、思わずだと答えようとして言葉を呑んだ。
正樹が着替えを行い、隠されていた身体のラインを見てその服の下の、白い、肌を―思い浮かべた。『女性』にしては大きな手が、指先が、蒼の顔をつまんだ。つまんで、不満そうに口を尖らせた。かわいい、と思ってしまった。
考えの終着点にたどり着いた蒼は、爆発する勢いで顔を赤く染め上げた。ちがう、と叫ぶことは出来ず、
「……、…、…っ!」
口をぱくぱくと金魚のように開け閉めした。たどり着いた先に、言い訳すら出てこない。
「……敵はやっぱり身近にいたのね…」
憎憎しげに碧が睨みつけた。その言葉に、やっぱりってどういうことだ!と叫ぶと、
「気づかなかったんだ。だろうね。蒼は気づくつもりもなかったんだろうけど」
意味深な言葉に、何を言われるか身構えた。
「いつもわたしが正樹に構ってもらってるとき、すっごくうらやましそうな顔つきで見てるの。で、そんな時、正樹が蒼を呼ぶとすっごく嬉しそうな顔をするの。蒼はね、ずっとわたしに嫉妬していたの」
絶句した蒼を見て、碧はねめつける様に睨んだ。
「蒼は気づいてないけど嬉しんじゃないのかな?手の届かなかった――正樹の手が届くんだもの。知ってる?わたしがどんな想いで正樹に振り向いてもらおうとしていたか。幼馴染の懐いてくれる可愛い女の子。戯言みたいな約束を守るために、告白してくる女の子たちを断るの。知ってる?その時正樹がなんて言うかっ!『約束だから』よ!わたしのこと本気で好きじゃないのっ。大切の意味が違うのっ!それなのにっ」
目に涙を溜めて碧は叫んだ。意味が違うと。碧は正樹を愛しているのに、正樹は碧のことが好きなだけだと。
「っそんなの知って、そんなこと知らされてっ!嫌いになりたいのに、なれないのっ。もっともっと好きになるのっ。わたしはだけ物にしたいのに、正樹は―わたしを自分のものにしてくれないのっ。もっと回りを見ろっていうの!蒼はいいわよっ!ただ、慕ってるだけでいいものっ。それだけで自分が満たされてるんだから!わたしは足りないっ!足りないのにっ」
床に崩れ落ちて泣き叫ぶ碧に、蒼は顔色を失う。正樹がいない、正樹がほしい、正樹が大切―。碧の想いが泣き声が、キッチンに水道の水音とともに響く。
「ずるい、蒼はずるいよ。いつだってそう。正樹と一緒にどこかにいっちゃう。正樹と一緒に並んで走れる――蒼はずるいっ!」
蒼なんて嫌い、大嫌いっ!!
立ち上がって叫んぶ。踵を返し、足音を乱暴に立てて玄関から出て行った。扉が乱暴に閉まる音が響いて蒼は押し寄せてきた後悔と動揺で泣きそうになった。
(5)
彼女は突然現れた。
10月下旬の寒空の中、コートやジャケットなど着ずに扉を開けた玄関の前に立っていた。
「みーちゃん?!」
駒形碧、略してみーちゃん。彼女は、目を赤くはれさせて本井雪の前にいた。ぼろぼろと涙をこぼし、「せっちゃぁあああんっ」と抱きつき泣き出した。何事かと、雪の両親が顔を出し、弟が驚いて二階の階段の手すりから顔を出した。
雪はよしよしと碧を慰めた。温かい自室に案内し、母親の入れてくれた温かい紅茶を勧める。鼻をぐすつかせながらも、マグカップにたっぷり入った紅茶に口を付けて、「おいしい」と微笑んでくれた碧に雪も笑顔を返した。けれど、碧の笑顔がだんだんと曇る。曇っていく。
「……みーちゃん、…嫌なことあった?」
お兄さんと、ケンカした?そう問うと、びくりと振るえ顔を横に振る。
「ケンカじゃない…。ケンカにもならなかったもんっ。一方的にわたしが、怒っただけ…」
再び涙をこぼす。
「蒼に嫌われちゃった…よぉ…ひどいこといっぱいいったぁああ」
「みーちゃん…」
「まさきとられちゃうの、や、で、…たくさん、ひどいこといったぁ…」
聞きなれた名前―まさき。碧の好きな人。中学から一緒の雪は碧に当事正樹の通っていた高校の練習試合を観戦に連れまわされていたこともあり、『正樹』という想い人を知っていた。
同じ年代の男子よりもやや小柄で、それでもサッカーの試合ではスピードとパスワークを屈指しボールをゴールへ導いていた。そんな彼を応援する碧は、本当に恋する女の子だった。
彼が大学に入った夏―、帰郷しないことから碧は憂い顔をよくする様になった。理由を聞けば連絡が取れない、とだけ聞かされそれでも元気そうだからと自分を誤魔化すように茶化していた。クラスの同級生の女の子からすれば幼馴染の年上のかっこいい男子が連絡をよこさなくなったのは、恋人が出来たからと『正樹のお嫁さんが夢』と豪語している碧を揶揄してからかっていた。そんな碧はそれでも明るく、正樹はそんなことしないもの―と信じていた。
雪はひとつ年上の碧の兄―駒形蒼を思い浮かべる。彼もまた、正樹と言う幼馴染を信頼していた。直接会話を交わしたことのない雪でも、遠目から見た彼は誰からも信頼されて頼りにされていた。
泣きやんだ碧に、母自慢のクッキーを差し出す。碧もこのクッキーは大好きだったはずだと勧めた。碧はクッキーをもそもそと食べ始め、「おいしい」と紅茶のときと同じように笑顔になった。碧の笑顔を見て雪はほっと息をつく。
「みーちゃん。詳しく話せる?」
蒼を傷つけたと泣いた碧は、雪にぽそりと告げる。碧にとって、信頼できる友達で、親友だから――本当のことを言える。
「蒼が、…正樹にキスしたの」
「………。いまなんて?」
問い返す。いまなんて、と。
「だから、蒼がね、正樹にね、キスしたの。ひどいんだよっ。わたしは二十歳までって言っておでことかほっぺだったのに…っ。先に蒼が、正樹、うぇ…」
再び泣き出した緑。雪は息を呑んで、そして吐く。
「蒼先輩って、男の人よね?」
「だよ?あおは、おとこのひと、だよ」
「キスって…」
「…そこはね、深海よりもふかいりゆうがあってね…ぐす…」
鼻を啜り、碧がにわかに信じがたいことを告げた。
「えっと…」
「理解しなくてもいいよ。でも正樹は女の人になったのっていうか、身体は女の人だったの」
「……とりあえず、正樹さんが女の人だったのね。それで蒼先輩がキスしたと…」
「うん。でね、蒼ってば自分がどれだけ正樹のこと好きかわかってないの。だから、なんでキスしちゃったのか分かってないの。なのに、正樹のファーストキスを奪っておいてじぶんはそんなきもち一切無いっていう風な態度なのっ!うそつきよ!」
蒼を詰る碧を雪はうなずくだけに留める。下手に慰めることはしない。駒形家の家庭の事情を聞き及んでいるからこそ、兄妹間でのケンカには口出しはしない。そう、これはケンカなのだ。碧の、一方的な。
(みーちゃんは、正樹さんのお嫁さんになれなくなっちゃったから『可能性』のある蒼先輩にあたってるだけ…)
理不尽な八つ当たりだと碧は分かっているからこそ、ひどいことを言ったと泣く。それでも、心が蒼の無神経な卑怯さを詰る。
(でも…)
ふと、思い立ったことがある。
「みーちゃん。へんなこと言うんだけどね…」
「ぐず、…なに?」
のどが渇く。カラカラに。これをいうと、たぶん碧は蒼を詰ることはやめるだろう。
「蒼先輩のこと、その。正樹先輩は好きなの?」
「大好きだよ」
即答。
「私の次に」
即答の、つけたし。雪は苦笑いを浮かべ、
「いままで、正樹さんはみーちゃんが二十歳になるまで待ってくれてて、隣を空けてくれてたんでしょ?」
こくりと縦に碧は頷く。頷いて、次第に顔が険しくなる。空白の、隣。それは、碧のためのものではなくなった。
では、誰のもの?
「……みーちゃん……」
険しくなった顔つきに、実は『頭の回転のいい』碧が気づいたことにため息をついた。目を赤くはれさせた碧が、震える唇で雪に問う。
「――、だれかちがうひとが、はいる…」
碧ではない、女性ではない、男性が、入る。男に抱かれる趣味は無い、といいつつも、あの親友と豪語した男を碧は思い浮かべた。馴れ馴れしい、あのおとこ。軽薄は顔つきが苛立ちを呼び起こす。碧は無言で立ち上がった。そして、ありがとうと短く御礼を伝えて足早に階段を下り、雪の両親に突然来訪した謝罪とお礼をし本井家から出て行った。
雪はため息をつきながら、兄である蒼にこれから碧がいうであろう事柄に手を合わせて謝罪した。
けれど、いつかは彼も気づくことだ。
そして、恐ろしくなるのではないかと雪は思う。
(6)
碧が飛び出してから、時計の針が夜の11時を指した。
居間でそわそわとしながら、碧が行くであろう本井家からの電話を待っていた。碧が逃げ込む先なんて蒼は分かっていた。明るい性格の碧だが、腹のうちは一握りの人間にしか見せない。親友と呼べる本井雪(もといせつ)。彼女からの連絡を、進む時計の針を見ながら待っていた。乱暴に玄関の扉の開閉の音が響く。碧がいつ帰ってきても良いように玄関のカギは無用心だが開けていた。バタバタと足音を立てて今に飛び込んできた碧は走ってきたのであろう、髪を乱し、顔を泣きはらし、目を吊り上げてソファーに座って時計から視線を移した蒼の襟を乱暴に掴む。
掴んで、蒼に、告げた。
「正樹のファーストキスをとった責任とって」
「……みどり?」
いぶかしげに、妹を見る。妹は―碧は追いつめられたように顔を歪める。
「正樹が、…そばからいなくなる」
その言葉を蒼は困惑しながら受け止めた。困惑し、動揺した。いなくなると言った碧の切羽詰まった有様が、事実だと物語っている。
「蒼は責任を取らなきゃいけないのっ!責任とって結婚して!」
「…は?」
「正樹の唇を!ファーストキスを奪った蒼は、正樹と結婚すればいいのよ!」
「……、碧。お風呂沸いているから入ってきたほうがいい」
そして冷水シャワーで頭と腫れた顔を冷やして来いと遠まわしに伝えるが、碧はかぶりを振り、
「…正樹、絶対、――わたしたちじゃない誰かを選ぶ…」
その言葉に、目を見開く。
「なにいって…兄さんは、碧を」
「選ばないよ。正樹は女の人だもの。正樹はそういうところはきちんとするもの。『わたし』はもう、正樹の恋愛対象外だもんっ!それに、男の人から女の人になった正樹は絶対私たちの傍にいようとしないっ。変わった自分は絶対わたしたちの邪魔になるって思うもんっ!正樹はぜったいそう考えるもんっ!わたしたちのこと大好きっていっても、それはわたしたちが正樹を好きって気持ちよりぜったい小さい!簡単にわたしたちのこと諦めるもんっ」
蒼の手を握る。
「蒼は自分の気持ち、気づいた。まだ、全然わたしなんかより蟻んこみたいに小さい気持ちだけど」
「おい」
「けどね!他の誰かに正樹が盗られるなら、蒼がいいっ!蒼じゃないと嫌!」
「碧っ。勝手にきめる――」
な、と怒鳴ろうとする。が、ぽたりと涙が、蒼の手の甲に落ちる。握り締めた碧の手が離される。
「わたしじゃ、まさきの、そばに…いられない…」
だれかにまさきがとられちゃう。そう言って、涙を零して泣く。
「蒼は、正樹が―正樹にい…きらい?」
「っ」
お嫁さんになると言いだし始めてから、「にい」と付けずに呼び捨てで正樹を呼んでいた碧が数年ぶりにその呼び方で呼んだ。
「わたしの、私のために空けていた正樹にいの隣をわたしでない誰かに盗られるのっ。蒼じゃない男の人に盗られるの。蒼はそれでいいの?正樹のいちばん――なりたくない?」
涙で濡らした瞳で蒼を見つめる。
いちばん。その言葉に蒼が動揺した。心が揺れた。蒼のかすかな震えに碧は口角が上がるのを堪えた。再び、蒼の手を握りしめ、
「蒼なら、正樹のいちばんになれるよ。いまなら」
きっと正樹の心を隙をつける。だって、正樹はわたしたちが『大好き』だもの。不適に笑う碧に戦慄しながら、蒼は逃げ場のない網にかかった。心の揺れを絡めとって、蒼の心のわずかな隙間をこじ開ける。碧は微笑み告げる。「蒼は正樹が好きだからいまなら、絶対一番になれるよ」、と。赤くはれた瞼で痛々しい微笑だったが、蒼はその笑みに恐怖した。
心の、認めたくない『汚い』心に碧がその細い指を無遠慮に突っ込んだのだ。
憧れの、宝物の、一番になりたい―。汚い、嫉妬心に。
「あお」
片膝をソファーに乗せてギシリとスプリングが鳴る。触れ合うくらいの距離で、
「まさきがてばなしたものは、『わたし』じゃないよ。わたしたち、だよ」
目を細めて、腕を蒼の首に回した。
蒼はその言葉に目を見開く。碧でなく、自分も含まれていることに。
「ゆるせないよね?」
毒のような囁きの意味を考える。
手放したのは、『私たち』。
「……きっと正樹は私たちの前からいなくなるよ。そして、わたしの、わたしたちのための場所に誰かが入る。あのアイザワって男の人が入るかもしれないよ。いいの?」
「…っ」
息を呑む。相沢翔が碧のために空けられていた場所に入る。
碧なら、蒼も隣に立てる。――そばにずっといれる理由がある。けれど、相沢が隣に立ってしまえば――、その事実に蒼は青ざめた。うそだ、そんなことはない。そんな風に考えてしまった。
「それは、ないよ。兄さんはちゃんと―」
「正樹はアイザワって人の『意思を尊重する』なんて、甘い言葉にきっと転がっちゃうよ。正樹はそういう人間だもの。褒め倒せば、天狗になるもの。がんばっちゃうものっ。いつかあのアイザワって男の毒牙にかかるものっ!」
辛らつな口調で正樹の長所でもあり短所でもあることを言った。そして相沢翔の嫌味ったらしい笑みを思い浮かべ碧は叫ぶ。正樹が食べられちゃうと!
「あのヒトに褒め打押されたら絶対正樹折れるもの。甘えるもの。そこを悪い男は付け込むの!正樹はチョロイもの!いけない、それはいけないよっ!それはダメだよっ!蒼!阻止できる段階は今しかないの!いまきっと正樹は蒼のことで頭が一杯だもの!いまがチャンスなのっ!じゃないと蒼なんて正樹に相手されないもんっ。飛びぬけてどこがいいって言えば顔がちょっといいくらいだし、成績は上位だけど1位になったことないし、部活の剣道だってインターハイいけるかいけないかで微妙な感じだったじゃない?正樹と比べたら、蒼なんてダメダメだよ!」
むしろ比べるなと、蒼は怒鳴りたかった。怒りを通り越して顔は白くなる。
正樹兄さんと比べるなんて、人間と神様を比べるくらい無謀なことだ!と喚き散らしたかった。極端な話だが比べるならば尊敬する正樹は神様に等しい。目指すべき人で憧れで、宝物のような―大切な人なのだ。
「そんな蒼にチャンスが来たんだよ!今までわたしの影で指を咥えていた蒼に、とうとうチャンスが来たんだよ!」
喧嘩売ってるんだな、碧は。そうだな、碧は喧嘩を売っているんだ。
青白かった顔が怒りで赤く染まる。
うらやましいかった。汚い心(それ)をいままで指摘されるまで気がつかなかったなんてない。けど、それは人間誰しも、誰かのものがほしい、誰かにみてもらいたい、構ってもらい。そんな気持ちを持っているだろう?無遠慮に引きずり出された蒼の心を碧はかき乱す。碧の一方的な言い分に蒼は反撃する。
「兄さんは好きだけど、『女性』としてみてるわけじゃない!」
「じゃあ、何でキスしたの?正樹にいままでキスしたことあった?」
蒼の怒鳴り声を碧は鼻で笑わらった。
「いま、蒼が怒ったのはずっと『うらやましかった』ことを指摘されたから。そうでしょ?」
図星を指された。ので、喉からぐっと音が鳴る。碧は笑みを深めた。泣きはらした顔で笑う顔は――、勝ち誇った狂喜を孕んでいる笑顔だった。
「蒼、手が届くの。正樹が蒼だけのモノになるの。正樹のこと、好きよね?」
耳に唇が触れるか触れないかの距離で、そう囁く。毒を孕むその囁きに逃れるように身を動かすが、
「蒼は正樹、嫌い?」
「嫌いなわけないっ」
碧の悲しげな声に蒼は情景反射で答えてしまった。碧がくすりと笑った。蒼は正樹を思い浮かべる。現在の正樹、過去の正樹。
大好きだ。尊敬する兄だ。けれど、
「……兄さんは、その」
「女の人よ。体だって(見てないけど)遜色なく女性。感情はまだ男の人だけど、わたしたちを大好きな正樹のまま。『幼馴染』が大好きなままの正樹。『恋人』として正樹に大好きなってもうために蒼はもう、正樹って言う大きな湖に石を投げ込んだんだよ。正樹の心に『蒼』が響いてる―。まだ『蒼』っていう波紋があるうちに―」
消えないうちに。
「他の誰かに取られちゃまえに、とらないと」
わたしでない、だれかに。
あおでない、だれかに。
まさきが、とられちゃうよ。
また、離れ離れになっちゃうよ。
碧の言葉は、蒼の胸に鋭く響く。そうだ、――嫌われていなかった。けれど結局は他人。血の繋がらない、他人。他人だ。大好きな人と、ずっと一緒に入れない。そうだ、と蒼は喉に詰まった言葉をうめき声に変えた。本当の兄弟になれない代わりに、碧がつないでくれると蒼はずっと思っていた。そうだ、った。
繋ぐ線がなくなった。繋がりがなくなった。望んだものが、なくなった。
笑いかけてくれる笑顔はそこにあるのに、触れてくれる手はそこにあるのに、確固たるものがない。それがないと、不安だ。不安で、――心が震える。
正樹が誰か別の人の手を取って、その人が一番で、それなのに蒼も碧も正樹が一番で。
一番に、なれるだろうか…。
なれるはず無い…。
正樹の一番になることなんて、考えたことが無い―。
けれど、――なりたい。
「蒼?」
微動だしない蒼を見て碧が驚く。どうしたのかと問う。けれど、蒼は首を横に振るだけだ。碧の両方の二の腕を掴み、
「こわい…」
兄さんが、碧や蒼の誰とでもない人と一緒にいることを決めることが。
碧がいるからと、安心していた自分がいたことが。
そして、新城正樹という人の一番になりたいと思った自分が。
気づいたら駄目だった。
憧れていた、大切な人、大好きな、大切な人。――ほしいと思ってしまった、『宝物』。
「怖くないよ、蒼。蒼が正樹と結婚すればいいんだもの。そうすれば怖いものなんて無いよ」
喪失感と望んでしまったことに対し恐怖する蒼に、同じ喪失感に恐怖していた碧が告げる。夢がなくなった、恐怖。側にいるという約束がなくなった、恐怖。碧は微笑んだ。
「正樹が蒼のお嫁さんになれば、ぜーーーんぶ解決じゃない?」
ふふふ、と満面の笑みを浮かべる碧の言葉の毒と、気づかされた喪失の恐怖で思考が鈍っていた蒼は頷いた。
(……かいけつ…)
なのか?
自分自身に問いかけた答えを持っているのは、たぶん、正解でただ一人。
一番大切な『宝物』。
(7)
「蒼、お前…おこづかい足りるのか?」
三回目の駒形蒼の来訪。正樹は蒼の周囲をしきりに見回す。
きっと碧を探しているのだろうと、蒼は少し胸が苛立った。
正樹は碧を好きだ。それが、幼馴染として好きなのか女性として好きなのかと問われたら蒼は絶対に「正樹兄さんは『碧だから』好きなのだ」と答えた。蒼にとってそれは当たり前のことだった。正樹は碧の『こと』が好きだ。そのことになんら疑問を抱いたことはない。けれど、碧にとっては不安で仕方なかったのだろう。正樹に「女性として好きになってもらいたい」と一生懸命だった。
今なら分かる。碧の必死さが。
けれど、今、蒼しかいないこの場で、正樹は蒼の心配をしながら『碧を』探しているのだ。
そのことに蒼はなぜか苛立ち―いや、嫉妬していた。
「えー…と、今日、泊まるか?」
俺んち。と問う正樹は、先週の土曜日の夜の挙動不審さはない。ただ、距離が空いている。空いていて、
「そんなに離れてどうしたんですか?」
蒼は正樹の挙動不審さが自分のせい?、とも思いながらも隣を歩くように促す。おずおずと正樹は隣に並び、ぷるぷると震えた。その挙動不審さに蒼は驚く。もうすぐ十一月。日中はまだ暖かいといっても日が落ちてくれば肌寒い。もしかして、寒い?と思い蒼は正樹に問う。
「どうしたんですか?寒いんですか?」
「い、う…あい。いや、あのさ。ごめんっ!」
突然頭を下げて謝られた。目を瞬いて蒼は周囲を見た。何事かと通行人が二人をまじまじと見つめる。慌てて頭を上げるように頼むが正樹が蒼の声を無視して叫んだ。
「ごめん!いままでしてきたことが、まさかセクハラに当たってたなんてっ!俺、お前らに嫌がられてたの知らなくて調子に乗ってっ。あんまりしないようにが、がまんする…じゃない、もうしないから!碧にも伝えてくれっ」
通りを歩く野次馬の視線がちくちくと蒼を刺す。蒼は別に気にしてない、大丈夫だと伝えるが、
「だって、蒼がセクハラって」
お前が言ったんだろう?と困惑した視線を瓶底眼鏡越しに蒼に向けた。蒼は正樹の腕を引張り近くの喫茶店の中に飛び込んだ。飛び込んで、
「いらっしゃい…あらぁ…。こんにちは」
二週間前に相沢翔に連れてこられた喫茶店だった。運が良いのか悪いのか、蒼は一瞬躊躇したが、葛木桃果の営業スマイルが有無を言わせず角の席に案内された。
肩を落として意気消沈している正樹に、咳払いをしながら蒼は告げた。
「別に、…セクハラだって思っていませんよ。ただ、あんな風に子どもみたいな扱いをされるのはちょっと…。もう、僕も碧もおと――」
「子供だろ」
正樹の何を言っているんだ?と真剣な眼差しに絶句する。絶句して、口を何度か開け閉めする。反論する言葉が出ない。たぶん、反論しても正樹は蒼と碧を子供と言い張るだろう。
「未成年じゃん」
無言になって眉間に皺を寄せる蒼に、現実を突きつける。
ええ、そうですね、その通りですね。未成年ですよ。保護者が必要な年ですよ。それの何が悪いんですか!と叫びだしそうになったが蒼はその怒声を飲み込んだ。駒形の家から出て行った父と愛人―現在は籍を入れているし、旧姓を名乗るあの男を父と断言したくもないが唯一の肉親だ。ゆえに、あの男に養護されていることが腹立たしい。正樹の父によくしてもらっているが、結局は、碧と蒼ひとりでは何も出来ない、子供なのだ。
「だから、そんな顔するなって」
腕を伸ばされ、正樹は前髪をくしゃりとかきまぜた。
「……にいさん」
「大丈夫だって。俺はお前たちの味方だし、大人になったら」
「なったら?」
「俺がお前たちの仲人してやるよ!むしろ父親役でもいい」
「意味分かりませんが」
「あ、碧の恋人になるヤツはとりあえず死ぬほど殴って、蒼の恋人になる女の子にはよろしくっていっとくかなぁ」
瓶底眼鏡が喫茶店の照明に当たりキラリと輝く。満面の笑みを浮かべて言い放ったこの男―もとい女に苛立ってしまった蒼を碧は決して責めないだろう。
肉体的問題を告白した新城正樹の中で、既に『駒形碧』は過去のものになっている。他の男にやるのか?碧を?殴って終わるのか?
碧がいった言葉が脳裏に響く。
『まさきがてばなしたものは、『わたし』じゃないよ。わたしたち、だよ』
爽やかな笑顔を浮かべて正樹は、碧と蒼を手放した。多分、碧と再会したときに――隠し事がなくなったために手放したのだろう。簡単に。隠し事をしている罪悪感がなくなったから、あっという間に手放した。蒼や碧が望んでいたものを。碧がほしいのは『正樹』で、正樹との繋がりで―、蒼もまた正樹との繋がりがほしかった。
(兄さんの中で、俺たちは簡単に手放せるものなんだ…)
その事に蒼は憤りで体が震えた。
僕らはこんなに、新城正樹が好きなのに――。
大切な宝物。誰にかに、取られる前に。
桃果が不穏な気配を感じたのか、タイミングを見計らって持ってきたお冷を頭を冷やすために蒼は飲み干した。飲み干しても苛立ちは消えず、立ち上がって正樹のパーカーの襟元に腕を伸ばした。突然掴まれた正樹は驚いてなすがままに引き寄せられた。ガタンとテーブルが鳴り響き、正樹側の水の入ったグラスがこぼれる。倒れたグラスに視線が行った正樹の顎を掴んで、視線を自分に向けさせた。正樹は驚いて声を上げかけたが、蒼が容赦なく口を塞いだ。
口内を弄るような口付けの後、解放された正樹は椅子に腰を危なげに落とした。顔を赤く染めて口元を手の甲で拭うように隠す。その様子がまた、蒼を苛立たせた。
睨みつけるように正樹を見つめ、
「好きです。付き合ってください」
と、告げた。
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