(1)
腰までの長い髪と彼女が着ているプリーツスカートの裾が揺れる。
大きな瞳が不機嫌そうにゆがめられる。駒形蒼はその視線を受け流し、玄関で靴を脱いだ。
「ただいま」
「ずるいよ、蒼」
むすっと頬を膨らませた少女が蒼にそう言うと、
「ごめんな」
「そうだよ!正樹のところに行くなら私も一緒に行きたかった!正樹どうしてた?かっこよくなってた?彼女なんていないよね?!いたら夜中までずっと携帯に電話かけてやるんだからっ」
憤る彼女―駒形碧(こまがたみどり)に、苦笑いを浮かべながら元気してたし彼女もいなかったよ。と笑って返す。彼女なんて出来はしないだろう。だって、正樹は『女』なのだから。
「蒼っ蒼、ねえねえ。今度私も連れてって。お小遣い溜めてる分あるしっ」
蒼の腕に腕を絡ませて碧は笑う。笑って、
「正樹に会いたいっ正樹のごはん食べたし、正樹と一緒に寝たいし、あわよくば最後までっ」
くふふふ、と陶酔するかのように笑う妹に蒼は引きつった顔を浮かべた。この、正樹ラブな妹をどうすべきかと思考を巡らせる。女になっていたと知ったら首を吊るかもしれない。それ以上に、「正樹を殺して私も死ぬーーーー」とか、言い出しそうだ。
「……とんでもないな」
とんでもない妹だと息をつく。そのため息に、きょとんと目を丸くした。
「蒼、お疲れ?」
「ああ」
「そっか。正樹のいるところまで電車で3時間だもんね。お疲れ様っ。でもおかげでずっと連絡なかった正樹から連絡があって、すっごく幸せだよ!」
両手を合わせて、
「天国のお母さん、碧はいま、とーーーても幸せです!」
と言って仏壇の位牌の前で報告をする。蒼もまた、両手をあわせて帰宅の連絡をした。二人は思い思いに心の中で亡き母に語りかけた。しばらくの静寂の後、固定電話のコール音が響く。二人は同時に身を震わせて、顔を見合わせる。
碧はあからさまに顔を歪め、蒼もまた嫌悪を滲ませた表情で電話の着信表示を見た。
『父』
そう、ディスプレイに出ていた。出ないわけにはいかず、蒼は受話器を取り、短く「はい。駒形です」と伝えた。
《ああ。お前か。来月の生活費を振り込んで置いた。あとお前たちの授業料もだ》
「ありがとうございます、お父さん」
《まったく。お前たちが高校なんかに行かず、さっさと働いてくれればこんな手間》
「父さん、すみません。郵便局の方が書留を持ってきたようで、失礼します」
《まて、おい。まだ話は――》
受話器持つ手とは別の、指で、通話を切った。
ツーツーという音が受話器から流れ、
「……蒼…」
「…大丈夫だ。俺が、碧をちゃんと大学まで出させるから」
「え?ちょっと、だって―」
「あの人、本気で高校までしか養育しないつもりらしいし。実際、嫌々ながらにあの人に甘えているのが現状だ」
「蒼!ダメだよっ。蒼は大学にいって、勉強するでしょ?!私が高校やめて働くよ!いまのアルバイト先の店長さん優しいもん!すぐ雇ってくれるよっ!」
「馬鹿。それこそダメだ。碧にはちゃんと学校に出てもらいたいんだ」
縋る様に蒼の腕を取る碧の頭を撫でる。
(兄さんなら…、正樹兄さんなら…きっと碧の不安なんて一瞬で消してしまうんだろうな)
不安そうに、見上げる妹をぎゅっと抱きしめて、
「大丈夫だよ、碧」
そう囁いた。
6畳の部屋で二人で寝る。怖いからだと、碧はよく蒼の部屋にやって来た。
蒼は碧を自分のベットに招き入れて、震えが止まるまで一緒にいる。
駒形蒼と駒形碧の父は、いま別の家庭を持っている。この家を捨てて、この家族を捨てて、愛人と家庭を持った。母は心の病で亡くなり、この家に愛人とその子供がやって来た。
先住人の蒼と碧の扱いはまるで空気同然だった。食事も、愛人との子供と比べて粗末で二人はやせ細っていった。一戸建てと言っても、部屋数は限られており亡き母の衣類と共に6畳の部屋に押し込められた。父は母の遺留品を処分することなく、愛人に使用させ、愛人が気に入らないと思うものはどんどんゴミに出されていった。
二人は母の大切な形見を、匂いを忘れてしまわないようにどこかに隠そうと紙袋につめそして家を出た。捨てられてしまう前に、使われてしまう前に。
―――そんなとき、サッカーボールが転がってきた。
まぶしい、とカーテンから漏れる朝日を感じ蒼は朝の光から逃れるように身を捩る。
ベットの中の温かいぬくもりに、ああ、碧か。と蒼はぼんやりと意識を浮上させた。
「…うー…あおぅ…」
ぎゅっと蒼に抱きつきながら、碧はもごもごと寝言を呟く。くすりと笑いがこみ上げた。こんな風に碧と一緒に寝るのはいつ振りだろうか、と記憶のページをめくる。
めくると、碧と一緒に正樹の記憶も現れる。
同年代の男子よりも背が低く筋肉が付きにくいと嘆きながらもダンベルで日々筋トレを欠かさず、予習復習も真面目に行い、蒼と碧の勉強にも付き合ってくれて、さらに日々の食事の準備までも行ってくれて、
「……体の半分以上兄さんでできてるな。俺たちは」
実の父親よりも血の繋がらない新城家に育てられたといって過言ではない。いま、この駒形家には蒼と碧の二人で住んでいる。もろもろの手続きは正樹の父親である、新城清志が行ったが事実上、二人は父親から捨てられた。
父は婿養子で駒形の姓を名乗っていたが、愛人との入籍を気に急性に戻し駒形家から出て行った。
そのときのごたごたは二人にとって思い出したくも無いが、二人を護る『ヒーロー』のような存在だけは思い出の中でひときわ輝いていた。くやしい、かなしい、くるしい、そんな気持ちが――吹き飛ぶほどの、感情。
碧は正樹に恋をし、蒼は正樹に憧れた。
二人の中で、新城正樹は、すべてだった。
「蒼。シンジョのおじさんが警備会社の人と来るって」
「?新城のおじさんが?警備会社の人と?」
子供二人で一戸建てにすんでいるため、警備会社のセキュリティを入れている駒形家。
駒形兄妹の後見人としてその地位をもぎ取った正樹の父親である清志はよく二人を気にかけ連絡をよこしてくる。朝一番で掛かってきた電話も、また、二人の身の回りのことに対することだった。
「うん。なんかセンサーの具合がイマイチだからって」
「……そうか。この間野良猫がセンサーに引っかかって警備の人来てたな」
「その前はセンサーにくもの巣が掛かって異常反応。おじさん、いまの警備会社不安みたい」
蒼は苦笑いを浮かべ、
「どれも、警備会社のせいじゃないかと思うけどな」
「調べてもらって工事するなら、わたし!週末 正樹の家に行きたい!」
朝食の準備をしていた蒼は思わず、トーストしたパンを置いたお皿を落とすところだった。
「ちょっと!落とさないでよね!朝ごはんなくなっちゃうじゃない」
「ちょ、え。碧」
「蒼だけずるいよ!私だってずっと正樹と会ってなかったし、正樹と会いたかったんだもん!あと正樹に彼女がいないかチェックして、そうだよ。ゴミ箱とか洗面台とか、食器棚とか、女の気配を感じたらわたし、がんばる!がんばるからね!」
頑張るな!と怒鳴りたくなるのを堪え、
「正樹兄さんに女の気配なんて無いよ」
むしろ兄さんが女だったんだが。
「そんなの分からないじゃない!蒼にだって彼女ができたんだからっ。正樹には、百や二百の女の影が…っ」
ぞわりと身を震わし、
「決めた、決めたわ!わたし!正樹のところ行く!!蒼が止めたって行くんだからね!自分だけ正樹の部屋に泊まってっ!ずるいんだからね!」
マグカップに牛乳を注ぎ、レンジにカップを入れスタートボタンを押して仁王立ちし、人差し指を蒼に突きつけた。
言い出したら聞かない妹―、恋は盲目と言うが、突き進む妹を止めることができない。否、自分だけ先に正樹に会ってしまったことが負い目となり―。
「今週は正樹の家でお泊りなんだから!」
拳を突き上げた碧の声がリビングに響いた。
(2)
「だれ、これ」
碧は、ポテトを咥えながら固まる新城正樹を指差し問う。
だれだと、これは。知り合い?と視線で蒼に問う。碧の中では正樹は輝くほどの存在だった。アイドルや女性に人気の俳優の輝きすらかすむほどの存在だった。だから、この、ぼさぼさ頭で瓶底眼鏡で、ダサい服装で、昔の洒落っ気も何もない、変わり果てた新城正樹を正樹だと認識できてはいない。
そして何故、自分の大学近くマク○ナルドに幼馴染の兄妹がいるのか。蒼は呆然としている正樹から視線をはずした。
「……あお~?」
蒼のジャケットの袖を引く碧にはっと我に返る正樹。咳払いをして、席どうぞ。と四人席に座っていた正樹は二人に席を譲る。正樹の名を呼びかけた蒼を睨みつけてどうぞどうぞと席を立った。が、
「正樹、なにしてって、幼馴染君?また来たの?ひまだね―げふ」
トレイを持ちながら相沢翔が驚いた声を上げた。上げて、正樹の正拳突きが腹部にヒットした。トレイの食べ物が床に落ちる前に素早く正樹が回収し、トレイの上に上がっているアップルパイ、ショコラパイとストロベリーシェイクを見てげんなりとした。
「…まさき?」
眉をひそめ碧は蒼と正樹を交互に見る。そして、正樹?と呟く。
「正樹、なの?」
「ひ、ひひひとちがいですよ?」
「その癖、正樹だ」
視線をせわしなくさ迷わせる正樹の癖に、碧が目を吊り上げて、
「何その格好っ。ダサいよ!ダサダサだよ!どこの苦学生って感じだよっ!あと。不潔!前髪長いし眼鏡かけているのもそれが悪いんじゃないの?コンタクトにしなよ。そうだ、わたしが正樹のコーディネートしてあげる!」
両手を叩き、いいことを思いついたと明るい声を上げた。碧は膳は急げと正樹の左手を掴み、
「どんな正樹でもわたしは正樹のお嫁さんになるしわたしは正樹の理解者だよ!」
正樹大好きっとぎゅっと正樹に抱きついた。碧は、正樹の匂いを胸いっぱい嗅ぎ―、頬に当たる柔らかい固まりに目を瞬かせた。ふにふにとする二つのそれを両手で同時に鷲掴み、
「っひ」
痛みと羞恥と、その他もろもろの悲鳴を上げかけた正樹の胸を揉みしだく。そして、
「びー。…Bね」
とサイズを言い当てた。トレイを持ったまま固まる正樹の顔をまじまじと見つめ問う。
「正樹なの?オマカさんになっちゃたの?それでもわたしは正樹を出来るだけ理解するわ。どんな正樹でも否定しないし、正樹が女の子になりたいならなればいいけど戸籍の妻の欄だけは絶対譲れないから!」
しがみつく碧を正樹から蒼は引き離し、席に座らせる。立ったまま意識が飛んでいる正樹は翔に慰められるかのように肩を叩かれた。
「現実逃避するな、現実を見ろ。もう隠し通せないだろう?」
「なに、あなた」
馴れ馴れしく正樹の肩を叩いた翔を碧は睨みつけた。翔は、こわっ!と胸中逃げ腰になりながらも虚勢をはって笑う。
「新城正樹の恋人の相沢翔で正樹の始めては全部俺がおいしくいた―」
さわやかに挨拶するその頭上からストロベリーシェイクがぶちまけられた。
「…っひ、つめっおま、正樹?!…まさ、き…くん?」
向けられた眼差しが、怒りと軽蔑に染まって般若のごとく歪んだ顔つきで、
「……気色悪いこと言うんじゃねえよ」
今にも縊り殺しそうな雰囲気でシェイクの容器を握りつぶした。
「……ご、ごめんなさい」
稀に見る正樹の怒りに震え、
「いやだって。俺お前の旦那候補一号だろ?なら別に」
「はぁ!?いつ!そんなことになった!?」
「え。言ったじゃないか。正樹が正樹でいたいなら協力するよって」
な。とシェイクを垂らしながら笑う翔に正樹は、そのときのやり取りを思い出そうと思考を巡らせようとした。が、
「……蒼…?……み、碧?」
厳しい顔つきの蒼と、般若のような顔つきの碧。碧は笑顔を無理やり貼り付けて、
「どーいう、こと、なのかな?ねえ。正樹ぃ…」
ガタンと椅子から音を立てて立ち上がった。
「そうですね。正樹兄さん、どういうことですか?先週は詳しく聞くのは憚られたので問い詰めませんでしたけど。彼、兄さんの中でどういう位置づけですか?恋人?」
「オカマさんになってるのはショックだけど、正樹の全部はわたしのものなの。それなのに、旦那一号?優しい顔して正樹に近づいた悪い男じゃないっ。わたしは認めないし、正樹はわたしの旦那さんになるのよ。旦那さんになる正樹が,
あなたのお嫁さんなんて認めないんだから!だいたい、日本じゃ同性結婚はできないんだよ!カナダにでも移住する気?そんなことはわたしがさせない。わたしがさせるわけないわ!県外の大学行っただけでも寂しかったし悲しかったし悔しかったのにっ!連絡がなくて心配してたのに、男の恋人!?」
ヒステリックに叫びだした碧に、翔と正樹は周囲に頭を下げる。女性店員が困ったように介入するべきか戸惑い、お客様。と声をかけた途端、
「ひどいっ!ひどいよっ。わたしの初めて全部取ってたのにっ。一緒にお風呂だって入ったのにっ」
ぼろぼろと泣き始めた。女性店員の冷ややかな軽蔑の眼差しと翔の冷やかすような眼差しと、呆れたような蒼の視線に正樹は発狂しかけた。
「せきにんとってよぉうう」
ぼろぼろと大粒の涙をこぼす碧に、正樹は咳払いして、
「男に抱かれる趣味も、男を抱く趣味もないし。あと、お風呂に入ってたのは小さい頃だし始めてって誤解を受ける言い方はやめろ。あと、周りを味方に付けて貶めるやり方は褒められたやり方じゃないぞ。俺はそういう出任せとか、嘘とか嫌いだ。だから、いまの碧は、俺が嫌いな人で、碧のこと嫌いなっちゃうぞ」
碧の頭を撫でて、嫌いなってもいいならいいぞ?と涙でくしゃくしゃになっている顔を覗き込む。いやぁーと泣き声を上げて正樹に抱きつき、謝罪を繰り返す。
まるで、幼い子供の扱いだ。
(自分がどれだけ好かれているかピンポイントで攻めてくる戦法かぁ)
生ぬるい視線を碧をあやす正樹の背に向けた。全力で好かれているし、たぶん正樹も好きだろう。
(俺も半分、本気なんだけどなー)
かといって、友達として、だ。
男女の関係になるかは、付き合ってみないと分からない。正樹なら友好な関係を気づけると思っていたし、正樹も気兼ねなく生活できるだろうと踏んでいた。ので、伝わっていなかったことに少なからずショックを受けていた。
ため息をつくと、翔は未だに厳しい視線を『翔』に向けてくる蒼に気づく。おや、と思いながらも、そろそろこれ以上はまずいだろうな。と周囲を見た。大学に近いマクドナ○ドだ。
正樹の地味さは有名だ。さらに、オカマだの同性愛だのの話題がくっつくと厄介だなぁと正樹の露払いを一身に受ける翔は月曜日からの苦労に重いため息をついた。
ぽたりと垂れてくるストロベリーシェイクだった液体を服の袖で拭っていると、女性店員がタオルを持ってきてくれた。礼を言ってすぐに出ますとつげ、頼んだパイやポテトなど、トレイの品物をすべて紙袋に詰めて周りのお客と店に謝罪をしながら、四人のうち大学生組みは逃げるようにマク○ナルドを離れた。
先日着た時と変わらず、すっきりとしたロフト付ワンルーム。
碧は正樹の住む部屋、と言うことにテンション高く、さきほど泣いていたのが嘘のようにすごいすごい、と言葉を繰り返す。そんな碧に正樹が何がすごいんだ?と苦笑いを浮かべる。
「正樹の部屋だからすごいんだよ~」
碧はソファーベットに飛び座り、スプリングの跳ね具合を見た。
「おお~」
「碧、行儀が悪いぞ」
蒼の窘めに、笑顔で返事をした。そして、
「あー、ねえ。正樹、どうしてあの人付いてくるのか?」
翔を指差して、いらないのに。と悪態をつく。翔は肩を落として苦笑いを浮かべ、
「あのー。君らの食べ物持ってるの俺なんですけど?」
がさがさと紙袋の音を立ててキッチンのカウンターに置く。正樹の幼馴染の兄妹の辛らつな視線を受け、翔は面白くない。そりゃ、兄の方は泣かせたし、妹の方は勘違いを利用した。嫌われても仕方ないが、その突き刺すような視線が面白くなかった。さらに面白くないのが、そんな二人を窘めない正樹だ。まるでダメだ。しょうがないな~と、二人を可愛がる。まるで注意をしない。
(面白くないなぁ…)
なので、とりあえず爆弾をひとつ置いていく。
「じゃあ、俺。帰るな」
「ああ。悪いな。今日―」
「仕方ないよ。近所の『ただ』の幼馴染が『突然』『連絡』もなく、遊びに来たんだから。『親友』の俺がお前のことを判ってやれなくて誰がわかってやれるのは俺だけだからな。じゃあ、明後日大学でな」
手を振って兄妹が何かを口にする前に、逃げるように部屋から出ていた。
出て、アパートの廊下を走り、階段をおり、人気の無い路地を走り、しばらくして――、
「こ、怖えええええええええええええええええええええっ」
マジで怖い!あの兄妹怖い!!
身を震わせた。嫌味を言ったのは大人気ないが、
「あの目。あの視線!殺すって言ってた!!」
背後を気にしながら、喫茶・アルトに駆け込んだ。店員である葛木桃果にすがりつくように怖い怖いを連呼し、もっと怖くしてあげると苛め抜かれたことは――、正樹が知る良しもない。
(3)
先にほんの少しだけ事情を知る蒼は、女性だったことを告げる正樹の話を目を見開いて聞いている碧がいつ凶行に出るか不安だった。恋人がいたら既成事実なんだから、が口癖の碧が既成事実ですら「正樹のお嫁さん」になることはできない―それを突きつけられていた。
高校2年生で頭が若干弱いように受け取れがちで、夢見がちだと同級生に言われているが――実際のところ、欲望に忠実なだけなのだ。『したい』、『ほしい』ということにすべてを注ぐ。だから、少しでも碧は正樹にふさわしいように努力していた。容姿も、運動や学業も。蒼と同じく、碧のすべてだった。
そのすべてが、崩れる。
「……そんな……そんなのって…」
ゆっくりと、涙が頬を伝う。瓶底眼鏡の分厚いレンズ越しに、正樹は涙をこぼす碧に動揺した。動揺したが、逃げることだけはしなかった。
真実を伝えた。身体が女だった。だから、『女』になったのだと。
「なんで…戸籍だけでも、男のままにしてくれればいいのに…」
あまりに自分本位な発言に蒼は誰が育てたこの子供。と、蒼は眉を跳ね上げた。だが、蒼も碧も『新城正樹』と新城家に育てられものだ。育てた本人が、一番居た堪れないのだろう。身を縮めていた。
「ごめん。クソ親父が、成人式に振袖着せたいとかほざいて…」
「見たい!」
しゅんっと肩を落としていた正樹の発言に、こぼした涙が嘘のように碧が反応した。
「正樹の振袖姿みたい!見せて、あるわよね写真!」
「げ…」
嫌そうに顔を歪めた正樹に、
「見せて。正樹の振袖みたいっ!あ、正樹。女の子ならもっと可愛い格好しないと!そんな不衛生なカンジだめだよ!正樹はもともとカッコイイんだから!」
パーカーに手を伸ばし脱がせようとし始めた碧に正樹は慌てた。慌てて全力で逃げる。
「確かに身体は女だけど、心は男だからな!女装は絶対パスだっ」
「そんなどこかの探偵漫画みたいなセリフ言わないで。正樹はかわいい女の子だよっ。女装じゃないよ!それにその眼鏡、ダサいから」
「いいだろ!なんでもっ。蒼、碧何とかしろっ。ちょ、どこさわって」
ぎゃー、と両隣の部屋に叫び声が聞こえるくらい大きな声を上げる正樹に碧が馬乗りに乗りかかって、正樹はだすべすべー。と声を上げた。
「蒼、なにかこう。可愛い服とかないかな。こんなダサイ服じゃなくて。蒼、そこのクローゼット開ける!」
「こら!プライベートだろ!?蒼お前何してる?!こら開けるな~~~」
碧に言われるままクローゼット開ける。ここで碧に反論して今後の食事事情を粗末にされるのも嫌だった。最愛の兄さんを生贄の羊にすることに心を痛めながらも、興味があったので開けてみた。
開けてみて、
「……兄さん」
色違いのLLサイズのパーカーが並ぶクローゼットの中を指差し、
「もっと別なもの着ましょうよ」
「うるっさい!いいだろ。こら碧上からどけろ」
「うー。やーだー」
「やーだーじゃないっ。お前ら嫌いになるぞっ」
駄々をこねる碧がピタリと止まる、そして蒼もクローゼットの扉に手をかけながら床に転がる正樹を見た。見て、
「「いまなんて?」」
二人は声を合わせていった。その声色は、低く、なぜか背筋に悪寒が走った。
いつもなら、これでいたずら、もとい正樹を困らせるのが好きな碧や従順な蒼を従えることができた。出来ていたのだが、二人の様子がおかしい。
「嫌いになるの?正樹は。嫌いになっちゃうの?」
「嫌いになるんですか。そうですか」
へーっと二人が冷たい視線を正樹に向ける。
「じゃあ。わたしも正樹を嫌いになっちゃう」
「では。僕も正樹兄さんを嫌いになります」
同時に告げられた嫌いという言葉にその身を激しく震わせた。ぽかんとして、二人を見上げる。見上げて、
「え?」
「正樹が嫌いになるなら、わたしも嫌いになるよ」
怒ったような顔つきで碧がすっと目を細めた。蒼はただただ呆然としている正樹を見た。
「正樹が女の人になったのはすごくショック。それだけでもわたしにとっては正樹を嫌いになる要素だよね?」
「み、碧?」
「ずるいよね。正樹は。そう思ってたよ。嫌いだって言えば、わたしを従えさせられるって思ってたんでしょ?でもわたしが、正樹を嫌えないからいいようにわたしの気持ち利用してたんでしょ?ならもうわたしが正樹を好きでいる理由なんて――」
「碧」
蒼の呼びかけにはっとして碧は自分の下で震える正樹を見た。眼鏡越しに、はっきりと泣いていることが分かった。驚いて碧は正樹の上から飛び退いた。正樹はゆっくりと身を起こして、眼鏡を押し上げて服の袖口で涙を拭く。拭うが次から次へと溢れてきて、「あれ?あれ?」と言葉を繰り返す。繰り返して、眼鏡が邪魔でよく涙をふけないやと引きつった苦笑いを浮かべ、弦を持っていた指先が震えてカシャンとラグの上に眼鏡が落ちた。ぼろぼろと涙がこぼれてくる正樹は両手で顔を隠して丸まった。震える身体がまるでダンゴのようだ。
「あ。あ、ああ」
碧は真っ青になりどうすればいいのか、困惑した。困惑して、ただ、正樹を『本気』で傷つけたのだと知った。蒼に涙を浮かべて助けを求めるが、その視線は厳しい。正樹を泣かせてしまったのが、―碧だといっているのだ。
嫌いだって二人で行ったのに。嫌いになるって二人で行ったのに。その目はなに?
ヒステリックに叫びだしたかった、けど。
「ご、め。おれ、だ、って、みど――だ、…すき…ぅえ…」
断片的に聞こえる音―声に、碧が崩れ落ちた。
『大きくなって碧に俺以上に好きなやつがいなかったら嫁に貰ってやるよ』
『そんなのいないよっ。わたしが好きなのは一生正樹にいだけだよっ!だから、彼女なんて作っちゃだめだからねっ』
『彼女かー。部活もあるし、お前らの勉強も見てやりたいし。いまのところ付き合う暇ないな~』
『じゃあ、一生面倒見てっ!』
『だからな、碧。おまえ話し聞いてたか…おいっからまるな』
『お嫁さんになるなら、正樹にいをにいって呼ぶと他人行儀だよねっ。今日から正樹って呼ぶからっ!お嫁さんに絶対してね!』
『だから人の話、聞けーーー!!』
小さいころの約束。
正樹が中学1年生のときのものだ。それからずっと、『彼女の気配』なんて無かった。ずっと、部活動や学業に精を出し、駒形兄妹の面倒を見ていた。それが、新城正樹の日常だった。そこに『異物』は無かった。
――変化したのは、大学に行ってからだ。連絡が取れなくなった。連絡をよこさなくなった。不安だった、不安で心が破裂しそうだった。正樹は約束、覚えてる?今でも、これからも正樹が一番だって―。
正樹の一番、に。
「正樹兄さん…。いつもの碧のわがままですよ。そんな深刻に受け止めなくても――」
「ぐず…嫌いに、なるって言った…。おまえら…。やっぱり、兄貴じゃないから…こんなんなら、…きらわれるなら…。やっぱり―― お前らに一生会わないほうがよかったっ」
「そんなことない!大好きだよ!!」
「ちょっとした碧の冗談ですよ!?」
「ちょっと。蒼ひどいよ!わたし一人に責任押し付ける気?!」
「兄さんに対して言い過ぎだっ!」
正樹の言葉を全力で否定し、冗談だと叫ぶ兄妹が、責任を押し付け合い始めた。
はじめ、
「ひどいよ!蒼!」
「ひどいのは碧だろ?逆を考えてみろ。もしも碧が『男』になったらどうする?兄さんの気持ちも考えろ」
「っど、同性結婚できる海外で暮らすもん!」
同性恋愛に嫌悪を抱かなくとも、それが自分となれば理解の範疇を超える。虚勢をはって叫んでみるが、想像が付かない。いつも碧が思い描いていたのは、『男女』の恋愛だった。
ので、
「こんど、本で勉強するもんっ」
「しなくていい。あと、無理しなくていい。それに、まだ碧は兄さんに対して謝っていない」
切り捨てるように碧に言うと、碧は謝ってない?と首をかしげ…そして顔を歪めた。
言い過ぎた、とは思っていた。けど、碧にとって今までの不安が爆発したものだ。嘘じゃない。冗談じゃない。
――碧の、『ほんとう』の気持ちだ。
だから、
「いや。謝らない」
「碧!」
「だって先に言い始めたのは正樹じゃない!」
丸まっていた正樹が酷く震えた。ゆっくりと身を起こし、赤くはれた目元をこすりながら、
「そうだな。俺が悪かった―。ごめん、碧。蒼」
そう言って頭を下げた。その様に碧が息を呑む。息を呑んで、悔しそうに。
「……正樹はずるいよ。いつだって、いつだって」
「大好きだよ。碧」
そう言って、床にへたり込む碧の元に行き正樹は抱きしめた。正樹の匂いだ、と碧はすがりつくように抱きしめ返した。正樹はいつだって、自分が間違っていたら素直に謝る。決して見苦しい言い訳はしない。蒼と碧の手本になるように、憧れの兄貴であるために、いつだって気持ちいいほど真っ直ぐしている。
「ぅ…う…っ」
碧の知っている正樹そのものを、碧は大好きで――。
夢が、ずっと抱いてきた夢が叶わなくっても、やっぱり大好きで。
失恋じゃないのに。大好きだって言ってくれているのに、やっぱり――繋がりが無いことが一番悔しくて…。
「正樹の子供になるぅうう」
「……おいおい」
ぎゅぅうと、力いっぱい抱きしめた。呆れる正樹は、碧に厳しい言葉を投げかけていた蒼がほっと肩を落とす様を見てくすりと笑った。笑われたことに、羞恥で顔を赤らめ拗ねたような顔つきで正樹を見た。正樹は目元を拭って、
「大好きだよ、おまえらのことっ!」
笑顔で言った。
持ち帰ったバーガーやポテトを温めて三人で食べた。食べてから、碧がまずいまずいと騒ぎ始めた。
「そりゃ冷めればおいしくないだろう」
もともとおいしいものでもないし、と蒼がぼやく。すると正樹が目を輝かせて、「じゃあ腕を俺がうまいものを食わせてやる!」と立ち上がった。
が、冷蔵庫には正樹が思い浮かぶほどの『おいしいもの』が作れるだけの材料が無い。保冷室からたまねぎとじゃがいもとにんじんを取り出し、
「すまん。カレーで我慢してくれ」
と冷凍していたひき肉を取り出した。
似非キーマカレーを作ろう。そう思い立って野菜を油で揚げるためにサラダ油と油鍋を取り出した。
「手伝うっ」
碧が飛び跳ねるように素早く正樹の元にかけていくと、蒼は出し抜かれた形になって腰を上げた状態で固まる。
「蒼はそこで座ってるといいよ~」
役立たずだしね、と笑顔を向けられて引きつった顔つきを碧に見せた。碧は鼻を鳴らせて、先ほど責め立てたことへの意趣返しだと視線で睨んだ。口をへの字にして蒼はキッチンで鼻歌を歌いだした碧を憮然として見つめた。
碧が見て見てと包丁を使った野菜切りのパフォーマンスをして、正樹を驚かせ、正樹はカレー用の肉が無いからな~と残念そうに切った野菜を油で揚げようとし、長い前髪がうっとうしくなった。もうばれてしまったし、蒼や碧に隠す必要も無いということで、碧に油の温度を任せてクローゼットの衣装ケースから服を取り出した。蒼は正樹が徒然着替え始めたことに驚いていた。正樹は身体の線を隠すためのパーカーを脱ぎ、Tシャツにカーディガンを羽織る。ぼさぼさだった髪を整えて、うなじの辺りでひとくくりに縛り分厚い瓶のそこのような眼鏡を置いた。
「よしっ」
拳を握り締めてガッツポーズを取り、
「うまいの作るぞっ」
と意気込んだ。蒼は、ぽかんと口を開けてラグの上で着替え終わった正樹の様変わりした姿を見て驚いた。
「…兄さん?」
「ん?なんだ?」
正樹かと問うと、何だと返事が返ってきた。きたので、目の前の『女性』は正樹なのだろうと、着替え姿を見ていたのに服と眼鏡を取っただけでかなり違う。そういえば、と白い肌を思い出して思わず頬に熱が上がる。きょとんとした正樹の視線から逃れるように顔をそらすと、その態度が正樹は気に食わなかった。気に食わなかったので、
「なんだよ。なんかあるなら言えよな」
近づいて正樹のそらされた顔を両手で挟んで自分の方へ向けた。むっと眉を寄せた正樹の顔が目の前にあり、不満があるならいえよ、言え言え!と頬を伸ばしたりし始めた彼―彼女に思わず蒼は、
「んむっ?!」
その不満で尖らせた唇を塞いだ。
(4)
スキンシップをどこまでスキンシップだと捉えていいのか。
正樹はOL向けのセクハラ対応法が書かれた本を広げて、沈痛な表情を浮かべていた。
「ん?朝からまったく優れない顔してるけど、風邪引いた?」
相沢翔が本をじっと見ながら微動だしない正樹の額に手を当て、
「…熱は無いな」
「YES、NOを言っていない状態の肌の触れ合いはセクハラだぞ。翔」
「は?」
「セクハラ。セクシャルハラスメント。略して、セクハラ」
「……はあ?」
首を捻って翔はまったくこちらを見ずに、視線だけ本に向けている正樹に呆れたため息をついた。また、何を考えているのか、と。
「なんだ?電車で痴漢されたのか?」
「俺に痴漢するような男がいるわけねえだろ?大体、この姿でおさわりしたい男がどこにいる」
「ダサさここに極まり!を、極めた格好だからなぁ。正樹のそれ」
「この伊達瓶底眼鏡の魔よけ具合もいいぞ。かなり。誰も近寄ってこない」
そりゃそうだろう、と翔は心の中で突っ込んだ。長い前髪を下ろし、眼鏡かけて、パーカー姿とジーンズ姿。喋って付き合えばその人となりのよさは分かるが、既に見た目で駄目な人は多い。なので見た目は大切。それに対し、翔は常々、男のときに仲良くなってて良かったなぁと思っていた。まさしく、そういった人間に近寄らないタイプなのだ。彼は。
がっちりガードした人間とただ、付き合い(しゃべり)づらいなぁと思ってしまうのだ。
「それで?男も女も近寄らず、大学で地味君と通っている新城正樹くん。いったい何をそんなに真剣に読んでるのかな?」
会話に乗っては来るが、本から一切視線をはずさず、ページをめくり文字を追うその顔を上げさせるために本を抜き取った。慌てて奪おうとする正樹の顔をその大きな手の平でバスケットボールを掴むかのように鷲掴んだ。
「……、『セクハラの正しい対応法』って…。なんだこれ。なに、正樹、セクハラされたの?」
驚いて声を上げる翔に正樹は返せと声を張り上げて本を奪う。奪って、
「……俺が」
本を抱えて翔から顔を背けて小さな声で呟いた。
「…俺がセクハラしてたかもしれないっ」
そして本を持ったままテーブルに突っ伏した。突っ伏して、
「子供のときみたいなカンジで、顔をむにむしてたら怒られたっ」
「あー…」
思わず顔を引きつられせて翔は、
「そりゃ、子ども扱いされれば幼馴染君怒るんじゃないか?彼たしか、…18歳だっけ?」
「うん。中学生のときの蒼なんか、身長低くて朝礼とか体育の授業とか前の列でさあ。碧なんて正樹にい正樹にいって後ろ付いて回ってっいてっ。何すんだよっ!?」
昔の可愛い駒形兄妹を思い浮かべて顔を緩ませる正樹を現実に引き戻すため翔は容赦なくその頭を叩いた。
「スキンシップが過剰だとか言われたんだろ?それは直せ。あと、そのブラコンとシスコンも直したほうがいい。あと幼馴染妹ちゃんに対するロリコンもだ。絶対それはやばい絶対」
顔の緩み具合が変態だと指摘し、
「とりあえず…仲良くやってたみたいで良かったよ…。これでも心配してたんだぞ。俺」
あの兄妹超怖かったから!とは、口に出していえない。
苦笑いを浮かべて良かった良かったと連呼する翔に、正樹は小さく呟いた。
「仲良く、……か」
どんよりと黒い気配を背負って再びテーブルに突っ伏す。
「やっぱり、もめたのか?」
「…んー。体のことはそれなりに…。その後、蒼がさぁ」
「うんうん」
「俺にキスしてさー」
「うんうん、……はぁ!?」
「言うには、セクハラだって。顔むにむにするの」
「いや、ちょっとまて。まって。どういう状況でキス?え、この場合セクハラされたのは正樹じゃないのか?」
テーブルに突っ伏したままの正樹を無理やり起こし、状況を説明しろと詰め寄る。詰め寄るが、
「俺。顔むにむにするのとか髪の毛わしゃわしゃするのとか、すげー好きだったんだよなぁ…。もうしちゃいけないのかなぁ…。やっぱりアニキじゃないとかなぁー。あいつって俺がサッカーゴールにシュート入れるたびにすっげー目キラキラさせて、正樹兄さんすごい!すごい!って、いて、痛いって!!」
翔が数回、正樹の額をチョップした。強く叩かれてはいないがそれなりに痛いので抗議の声を上げると、
「正樹。俺はこの二年半お前の幼馴染のことは延々と聞かされたからそれはいいんだ。いいから、さっさと事情を説明しろっ」
説明?と首を捻る正樹の額を再びチョップする。
チョップし、
「正樹、男からキスされたんだぞ?!」
「は?蒼からキスされたんだけど?」
「その幼馴染の蒼君はなにか?実は正樹と同じ女なのか?」
「馬鹿言うな。蒼は立派な男だ!俺が保障する。ちゃんと付いてる。たぶん、あれはデカイはず、痛て、痛いってっ」
中学生まで一緒に風呂に入っていた正樹はそのときを思い出すようにサイズを手で表そうとし、再び翔にチョップされる。
たびたびチョップされるので正樹は翔を怒鳴ろうと息を吸い込み、
「そんなことは聞いてない!!」
先に怒鳴られ、
「うっるさい!あんたたち!」
翔『だけ』脳天にトレイの一撃を食らった。
腰までの長い髪と彼女が着ているプリーツスカートの裾が揺れる。
大きな瞳が不機嫌そうにゆがめられる。駒形蒼はその視線を受け流し、玄関で靴を脱いだ。
「ただいま」
「ずるいよ、蒼」
むすっと頬を膨らませた少女が蒼にそう言うと、
「ごめんな」
「そうだよ!正樹のところに行くなら私も一緒に行きたかった!正樹どうしてた?かっこよくなってた?彼女なんていないよね?!いたら夜中までずっと携帯に電話かけてやるんだからっ」
憤る彼女―駒形碧(こまがたみどり)に、苦笑いを浮かべながら元気してたし彼女もいなかったよ。と笑って返す。彼女なんて出来はしないだろう。だって、正樹は『女』なのだから。
「蒼っ蒼、ねえねえ。今度私も連れてって。お小遣い溜めてる分あるしっ」
蒼の腕に腕を絡ませて碧は笑う。笑って、
「正樹に会いたいっ正樹のごはん食べたし、正樹と一緒に寝たいし、あわよくば最後までっ」
くふふふ、と陶酔するかのように笑う妹に蒼は引きつった顔を浮かべた。この、正樹ラブな妹をどうすべきかと思考を巡らせる。女になっていたと知ったら首を吊るかもしれない。それ以上に、「正樹を殺して私も死ぬーーーー」とか、言い出しそうだ。
「……とんでもないな」
とんでもない妹だと息をつく。そのため息に、きょとんと目を丸くした。
「蒼、お疲れ?」
「ああ」
「そっか。正樹のいるところまで電車で3時間だもんね。お疲れ様っ。でもおかげでずっと連絡なかった正樹から連絡があって、すっごく幸せだよ!」
両手を合わせて、
「天国のお母さん、碧はいま、とーーーても幸せです!」
と言って仏壇の位牌の前で報告をする。蒼もまた、両手をあわせて帰宅の連絡をした。二人は思い思いに心の中で亡き母に語りかけた。しばらくの静寂の後、固定電話のコール音が響く。二人は同時に身を震わせて、顔を見合わせる。
碧はあからさまに顔を歪め、蒼もまた嫌悪を滲ませた表情で電話の着信表示を見た。
『父』
そう、ディスプレイに出ていた。出ないわけにはいかず、蒼は受話器を取り、短く「はい。駒形です」と伝えた。
《ああ。お前か。来月の生活費を振り込んで置いた。あとお前たちの授業料もだ》
「ありがとうございます、お父さん」
《まったく。お前たちが高校なんかに行かず、さっさと働いてくれればこんな手間》
「父さん、すみません。郵便局の方が書留を持ってきたようで、失礼します」
《まて、おい。まだ話は――》
受話器持つ手とは別の、指で、通話を切った。
ツーツーという音が受話器から流れ、
「……蒼…」
「…大丈夫だ。俺が、碧をちゃんと大学まで出させるから」
「え?ちょっと、だって―」
「あの人、本気で高校までしか養育しないつもりらしいし。実際、嫌々ながらにあの人に甘えているのが現状だ」
「蒼!ダメだよっ。蒼は大学にいって、勉強するでしょ?!私が高校やめて働くよ!いまのアルバイト先の店長さん優しいもん!すぐ雇ってくれるよっ!」
「馬鹿。それこそダメだ。碧にはちゃんと学校に出てもらいたいんだ」
縋る様に蒼の腕を取る碧の頭を撫でる。
(兄さんなら…、正樹兄さんなら…きっと碧の不安なんて一瞬で消してしまうんだろうな)
不安そうに、見上げる妹をぎゅっと抱きしめて、
「大丈夫だよ、碧」
そう囁いた。
6畳の部屋で二人で寝る。怖いからだと、碧はよく蒼の部屋にやって来た。
蒼は碧を自分のベットに招き入れて、震えが止まるまで一緒にいる。
駒形蒼と駒形碧の父は、いま別の家庭を持っている。この家を捨てて、この家族を捨てて、愛人と家庭を持った。母は心の病で亡くなり、この家に愛人とその子供がやって来た。
先住人の蒼と碧の扱いはまるで空気同然だった。食事も、愛人との子供と比べて粗末で二人はやせ細っていった。一戸建てと言っても、部屋数は限られており亡き母の衣類と共に6畳の部屋に押し込められた。父は母の遺留品を処分することなく、愛人に使用させ、愛人が気に入らないと思うものはどんどんゴミに出されていった。
二人は母の大切な形見を、匂いを忘れてしまわないようにどこかに隠そうと紙袋につめそして家を出た。捨てられてしまう前に、使われてしまう前に。
―――そんなとき、サッカーボールが転がってきた。
まぶしい、とカーテンから漏れる朝日を感じ蒼は朝の光から逃れるように身を捩る。
ベットの中の温かいぬくもりに、ああ、碧か。と蒼はぼんやりと意識を浮上させた。
「…うー…あおぅ…」
ぎゅっと蒼に抱きつきながら、碧はもごもごと寝言を呟く。くすりと笑いがこみ上げた。こんな風に碧と一緒に寝るのはいつ振りだろうか、と記憶のページをめくる。
めくると、碧と一緒に正樹の記憶も現れる。
同年代の男子よりも背が低く筋肉が付きにくいと嘆きながらもダンベルで日々筋トレを欠かさず、予習復習も真面目に行い、蒼と碧の勉強にも付き合ってくれて、さらに日々の食事の準備までも行ってくれて、
「……体の半分以上兄さんでできてるな。俺たちは」
実の父親よりも血の繋がらない新城家に育てられたといって過言ではない。いま、この駒形家には蒼と碧の二人で住んでいる。もろもろの手続きは正樹の父親である、新城清志が行ったが事実上、二人は父親から捨てられた。
父は婿養子で駒形の姓を名乗っていたが、愛人との入籍を気に急性に戻し駒形家から出て行った。
そのときのごたごたは二人にとって思い出したくも無いが、二人を護る『ヒーロー』のような存在だけは思い出の中でひときわ輝いていた。くやしい、かなしい、くるしい、そんな気持ちが――吹き飛ぶほどの、感情。
碧は正樹に恋をし、蒼は正樹に憧れた。
二人の中で、新城正樹は、すべてだった。
「蒼。シンジョのおじさんが警備会社の人と来るって」
「?新城のおじさんが?警備会社の人と?」
子供二人で一戸建てにすんでいるため、警備会社のセキュリティを入れている駒形家。
駒形兄妹の後見人としてその地位をもぎ取った正樹の父親である清志はよく二人を気にかけ連絡をよこしてくる。朝一番で掛かってきた電話も、また、二人の身の回りのことに対することだった。
「うん。なんかセンサーの具合がイマイチだからって」
「……そうか。この間野良猫がセンサーに引っかかって警備の人来てたな」
「その前はセンサーにくもの巣が掛かって異常反応。おじさん、いまの警備会社不安みたい」
蒼は苦笑いを浮かべ、
「どれも、警備会社のせいじゃないかと思うけどな」
「調べてもらって工事するなら、わたし!週末 正樹の家に行きたい!」
朝食の準備をしていた蒼は思わず、トーストしたパンを置いたお皿を落とすところだった。
「ちょっと!落とさないでよね!朝ごはんなくなっちゃうじゃない」
「ちょ、え。碧」
「蒼だけずるいよ!私だってずっと正樹と会ってなかったし、正樹と会いたかったんだもん!あと正樹に彼女がいないかチェックして、そうだよ。ゴミ箱とか洗面台とか、食器棚とか、女の気配を感じたらわたし、がんばる!がんばるからね!」
頑張るな!と怒鳴りたくなるのを堪え、
「正樹兄さんに女の気配なんて無いよ」
むしろ兄さんが女だったんだが。
「そんなの分からないじゃない!蒼にだって彼女ができたんだからっ。正樹には、百や二百の女の影が…っ」
ぞわりと身を震わし、
「決めた、決めたわ!わたし!正樹のところ行く!!蒼が止めたって行くんだからね!自分だけ正樹の部屋に泊まってっ!ずるいんだからね!」
マグカップに牛乳を注ぎ、レンジにカップを入れスタートボタンを押して仁王立ちし、人差し指を蒼に突きつけた。
言い出したら聞かない妹―、恋は盲目と言うが、突き進む妹を止めることができない。否、自分だけ先に正樹に会ってしまったことが負い目となり―。
「今週は正樹の家でお泊りなんだから!」
拳を突き上げた碧の声がリビングに響いた。
(2)
「だれ、これ」
碧は、ポテトを咥えながら固まる新城正樹を指差し問う。
だれだと、これは。知り合い?と視線で蒼に問う。碧の中では正樹は輝くほどの存在だった。アイドルや女性に人気の俳優の輝きすらかすむほどの存在だった。だから、この、ぼさぼさ頭で瓶底眼鏡で、ダサい服装で、昔の洒落っ気も何もない、変わり果てた新城正樹を正樹だと認識できてはいない。
そして何故、自分の大学近くマク○ナルドに幼馴染の兄妹がいるのか。蒼は呆然としている正樹から視線をはずした。
「……あお~?」
蒼のジャケットの袖を引く碧にはっと我に返る正樹。咳払いをして、席どうぞ。と四人席に座っていた正樹は二人に席を譲る。正樹の名を呼びかけた蒼を睨みつけてどうぞどうぞと席を立った。が、
「正樹、なにしてって、幼馴染君?また来たの?ひまだね―げふ」
トレイを持ちながら相沢翔が驚いた声を上げた。上げて、正樹の正拳突きが腹部にヒットした。トレイの食べ物が床に落ちる前に素早く正樹が回収し、トレイの上に上がっているアップルパイ、ショコラパイとストロベリーシェイクを見てげんなりとした。
「…まさき?」
眉をひそめ碧は蒼と正樹を交互に見る。そして、正樹?と呟く。
「正樹、なの?」
「ひ、ひひひとちがいですよ?」
「その癖、正樹だ」
視線をせわしなくさ迷わせる正樹の癖に、碧が目を吊り上げて、
「何その格好っ。ダサいよ!ダサダサだよ!どこの苦学生って感じだよっ!あと。不潔!前髪長いし眼鏡かけているのもそれが悪いんじゃないの?コンタクトにしなよ。そうだ、わたしが正樹のコーディネートしてあげる!」
両手を叩き、いいことを思いついたと明るい声を上げた。碧は膳は急げと正樹の左手を掴み、
「どんな正樹でもわたしは正樹のお嫁さんになるしわたしは正樹の理解者だよ!」
正樹大好きっとぎゅっと正樹に抱きついた。碧は、正樹の匂いを胸いっぱい嗅ぎ―、頬に当たる柔らかい固まりに目を瞬かせた。ふにふにとする二つのそれを両手で同時に鷲掴み、
「っひ」
痛みと羞恥と、その他もろもろの悲鳴を上げかけた正樹の胸を揉みしだく。そして、
「びー。…Bね」
とサイズを言い当てた。トレイを持ったまま固まる正樹の顔をまじまじと見つめ問う。
「正樹なの?オマカさんになっちゃたの?それでもわたしは正樹を出来るだけ理解するわ。どんな正樹でも否定しないし、正樹が女の子になりたいならなればいいけど戸籍の妻の欄だけは絶対譲れないから!」
しがみつく碧を正樹から蒼は引き離し、席に座らせる。立ったまま意識が飛んでいる正樹は翔に慰められるかのように肩を叩かれた。
「現実逃避するな、現実を見ろ。もう隠し通せないだろう?」
「なに、あなた」
馴れ馴れしく正樹の肩を叩いた翔を碧は睨みつけた。翔は、こわっ!と胸中逃げ腰になりながらも虚勢をはって笑う。
「新城正樹の恋人の相沢翔で正樹の始めては全部俺がおいしくいた―」
さわやかに挨拶するその頭上からストロベリーシェイクがぶちまけられた。
「…っひ、つめっおま、正樹?!…まさ、き…くん?」
向けられた眼差しが、怒りと軽蔑に染まって般若のごとく歪んだ顔つきで、
「……気色悪いこと言うんじゃねえよ」
今にも縊り殺しそうな雰囲気でシェイクの容器を握りつぶした。
「……ご、ごめんなさい」
稀に見る正樹の怒りに震え、
「いやだって。俺お前の旦那候補一号だろ?なら別に」
「はぁ!?いつ!そんなことになった!?」
「え。言ったじゃないか。正樹が正樹でいたいなら協力するよって」
な。とシェイクを垂らしながら笑う翔に正樹は、そのときのやり取りを思い出そうと思考を巡らせようとした。が、
「……蒼…?……み、碧?」
厳しい顔つきの蒼と、般若のような顔つきの碧。碧は笑顔を無理やり貼り付けて、
「どーいう、こと、なのかな?ねえ。正樹ぃ…」
ガタンと椅子から音を立てて立ち上がった。
「そうですね。正樹兄さん、どういうことですか?先週は詳しく聞くのは憚られたので問い詰めませんでしたけど。彼、兄さんの中でどういう位置づけですか?恋人?」
「オカマさんになってるのはショックだけど、正樹の全部はわたしのものなの。それなのに、旦那一号?優しい顔して正樹に近づいた悪い男じゃないっ。わたしは認めないし、正樹はわたしの旦那さんになるのよ。旦那さんになる正樹が,
あなたのお嫁さんなんて認めないんだから!だいたい、日本じゃ同性結婚はできないんだよ!カナダにでも移住する気?そんなことはわたしがさせない。わたしがさせるわけないわ!県外の大学行っただけでも寂しかったし悲しかったし悔しかったのにっ!連絡がなくて心配してたのに、男の恋人!?」
ヒステリックに叫びだした碧に、翔と正樹は周囲に頭を下げる。女性店員が困ったように介入するべきか戸惑い、お客様。と声をかけた途端、
「ひどいっ!ひどいよっ。わたしの初めて全部取ってたのにっ。一緒にお風呂だって入ったのにっ」
ぼろぼろと泣き始めた。女性店員の冷ややかな軽蔑の眼差しと翔の冷やかすような眼差しと、呆れたような蒼の視線に正樹は発狂しかけた。
「せきにんとってよぉうう」
ぼろぼろと大粒の涙をこぼす碧に、正樹は咳払いして、
「男に抱かれる趣味も、男を抱く趣味もないし。あと、お風呂に入ってたのは小さい頃だし始めてって誤解を受ける言い方はやめろ。あと、周りを味方に付けて貶めるやり方は褒められたやり方じゃないぞ。俺はそういう出任せとか、嘘とか嫌いだ。だから、いまの碧は、俺が嫌いな人で、碧のこと嫌いなっちゃうぞ」
碧の頭を撫でて、嫌いなってもいいならいいぞ?と涙でくしゃくしゃになっている顔を覗き込む。いやぁーと泣き声を上げて正樹に抱きつき、謝罪を繰り返す。
まるで、幼い子供の扱いだ。
(自分がどれだけ好かれているかピンポイントで攻めてくる戦法かぁ)
生ぬるい視線を碧をあやす正樹の背に向けた。全力で好かれているし、たぶん正樹も好きだろう。
(俺も半分、本気なんだけどなー)
かといって、友達として、だ。
男女の関係になるかは、付き合ってみないと分からない。正樹なら友好な関係を気づけると思っていたし、正樹も気兼ねなく生活できるだろうと踏んでいた。ので、伝わっていなかったことに少なからずショックを受けていた。
ため息をつくと、翔は未だに厳しい視線を『翔』に向けてくる蒼に気づく。おや、と思いながらも、そろそろこれ以上はまずいだろうな。と周囲を見た。大学に近いマクドナ○ドだ。
正樹の地味さは有名だ。さらに、オカマだの同性愛だのの話題がくっつくと厄介だなぁと正樹の露払いを一身に受ける翔は月曜日からの苦労に重いため息をついた。
ぽたりと垂れてくるストロベリーシェイクだった液体を服の袖で拭っていると、女性店員がタオルを持ってきてくれた。礼を言ってすぐに出ますとつげ、頼んだパイやポテトなど、トレイの品物をすべて紙袋に詰めて周りのお客と店に謝罪をしながら、四人のうち大学生組みは逃げるようにマク○ナルドを離れた。
先日着た時と変わらず、すっきりとしたロフト付ワンルーム。
碧は正樹の住む部屋、と言うことにテンション高く、さきほど泣いていたのが嘘のようにすごいすごい、と言葉を繰り返す。そんな碧に正樹が何がすごいんだ?と苦笑いを浮かべる。
「正樹の部屋だからすごいんだよ~」
碧はソファーベットに飛び座り、スプリングの跳ね具合を見た。
「おお~」
「碧、行儀が悪いぞ」
蒼の窘めに、笑顔で返事をした。そして、
「あー、ねえ。正樹、どうしてあの人付いてくるのか?」
翔を指差して、いらないのに。と悪態をつく。翔は肩を落として苦笑いを浮かべ、
「あのー。君らの食べ物持ってるの俺なんですけど?」
がさがさと紙袋の音を立ててキッチンのカウンターに置く。正樹の幼馴染の兄妹の辛らつな視線を受け、翔は面白くない。そりゃ、兄の方は泣かせたし、妹の方は勘違いを利用した。嫌われても仕方ないが、その突き刺すような視線が面白くなかった。さらに面白くないのが、そんな二人を窘めない正樹だ。まるでダメだ。しょうがないな~と、二人を可愛がる。まるで注意をしない。
(面白くないなぁ…)
なので、とりあえず爆弾をひとつ置いていく。
「じゃあ、俺。帰るな」
「ああ。悪いな。今日―」
「仕方ないよ。近所の『ただ』の幼馴染が『突然』『連絡』もなく、遊びに来たんだから。『親友』の俺がお前のことを判ってやれなくて誰がわかってやれるのは俺だけだからな。じゃあ、明後日大学でな」
手を振って兄妹が何かを口にする前に、逃げるように部屋から出ていた。
出て、アパートの廊下を走り、階段をおり、人気の無い路地を走り、しばらくして――、
「こ、怖えええええええええええええええええええええっ」
マジで怖い!あの兄妹怖い!!
身を震わせた。嫌味を言ったのは大人気ないが、
「あの目。あの視線!殺すって言ってた!!」
背後を気にしながら、喫茶・アルトに駆け込んだ。店員である葛木桃果にすがりつくように怖い怖いを連呼し、もっと怖くしてあげると苛め抜かれたことは――、正樹が知る良しもない。
(3)
先にほんの少しだけ事情を知る蒼は、女性だったことを告げる正樹の話を目を見開いて聞いている碧がいつ凶行に出るか不安だった。恋人がいたら既成事実なんだから、が口癖の碧が既成事実ですら「正樹のお嫁さん」になることはできない―それを突きつけられていた。
高校2年生で頭が若干弱いように受け取れがちで、夢見がちだと同級生に言われているが――実際のところ、欲望に忠実なだけなのだ。『したい』、『ほしい』ということにすべてを注ぐ。だから、少しでも碧は正樹にふさわしいように努力していた。容姿も、運動や学業も。蒼と同じく、碧のすべてだった。
そのすべてが、崩れる。
「……そんな……そんなのって…」
ゆっくりと、涙が頬を伝う。瓶底眼鏡の分厚いレンズ越しに、正樹は涙をこぼす碧に動揺した。動揺したが、逃げることだけはしなかった。
真実を伝えた。身体が女だった。だから、『女』になったのだと。
「なんで…戸籍だけでも、男のままにしてくれればいいのに…」
あまりに自分本位な発言に蒼は誰が育てたこの子供。と、蒼は眉を跳ね上げた。だが、蒼も碧も『新城正樹』と新城家に育てられものだ。育てた本人が、一番居た堪れないのだろう。身を縮めていた。
「ごめん。クソ親父が、成人式に振袖着せたいとかほざいて…」
「見たい!」
しゅんっと肩を落としていた正樹の発言に、こぼした涙が嘘のように碧が反応した。
「正樹の振袖姿みたい!見せて、あるわよね写真!」
「げ…」
嫌そうに顔を歪めた正樹に、
「見せて。正樹の振袖みたいっ!あ、正樹。女の子ならもっと可愛い格好しないと!そんな不衛生なカンジだめだよ!正樹はもともとカッコイイんだから!」
パーカーに手を伸ばし脱がせようとし始めた碧に正樹は慌てた。慌てて全力で逃げる。
「確かに身体は女だけど、心は男だからな!女装は絶対パスだっ」
「そんなどこかの探偵漫画みたいなセリフ言わないで。正樹はかわいい女の子だよっ。女装じゃないよ!それにその眼鏡、ダサいから」
「いいだろ!なんでもっ。蒼、碧何とかしろっ。ちょ、どこさわって」
ぎゃー、と両隣の部屋に叫び声が聞こえるくらい大きな声を上げる正樹に碧が馬乗りに乗りかかって、正樹はだすべすべー。と声を上げた。
「蒼、なにかこう。可愛い服とかないかな。こんなダサイ服じゃなくて。蒼、そこのクローゼット開ける!」
「こら!プライベートだろ!?蒼お前何してる?!こら開けるな~~~」
碧に言われるままクローゼット開ける。ここで碧に反論して今後の食事事情を粗末にされるのも嫌だった。最愛の兄さんを生贄の羊にすることに心を痛めながらも、興味があったので開けてみた。
開けてみて、
「……兄さん」
色違いのLLサイズのパーカーが並ぶクローゼットの中を指差し、
「もっと別なもの着ましょうよ」
「うるっさい!いいだろ。こら碧上からどけろ」
「うー。やーだー」
「やーだーじゃないっ。お前ら嫌いになるぞっ」
駄々をこねる碧がピタリと止まる、そして蒼もクローゼットの扉に手をかけながら床に転がる正樹を見た。見て、
「「いまなんて?」」
二人は声を合わせていった。その声色は、低く、なぜか背筋に悪寒が走った。
いつもなら、これでいたずら、もとい正樹を困らせるのが好きな碧や従順な蒼を従えることができた。出来ていたのだが、二人の様子がおかしい。
「嫌いになるの?正樹は。嫌いになっちゃうの?」
「嫌いになるんですか。そうですか」
へーっと二人が冷たい視線を正樹に向ける。
「じゃあ。わたしも正樹を嫌いになっちゃう」
「では。僕も正樹兄さんを嫌いになります」
同時に告げられた嫌いという言葉にその身を激しく震わせた。ぽかんとして、二人を見上げる。見上げて、
「え?」
「正樹が嫌いになるなら、わたしも嫌いになるよ」
怒ったような顔つきで碧がすっと目を細めた。蒼はただただ呆然としている正樹を見た。
「正樹が女の人になったのはすごくショック。それだけでもわたしにとっては正樹を嫌いになる要素だよね?」
「み、碧?」
「ずるいよね。正樹は。そう思ってたよ。嫌いだって言えば、わたしを従えさせられるって思ってたんでしょ?でもわたしが、正樹を嫌えないからいいようにわたしの気持ち利用してたんでしょ?ならもうわたしが正樹を好きでいる理由なんて――」
「碧」
蒼の呼びかけにはっとして碧は自分の下で震える正樹を見た。眼鏡越しに、はっきりと泣いていることが分かった。驚いて碧は正樹の上から飛び退いた。正樹はゆっくりと身を起こして、眼鏡を押し上げて服の袖口で涙を拭く。拭うが次から次へと溢れてきて、「あれ?あれ?」と言葉を繰り返す。繰り返して、眼鏡が邪魔でよく涙をふけないやと引きつった苦笑いを浮かべ、弦を持っていた指先が震えてカシャンとラグの上に眼鏡が落ちた。ぼろぼろと涙がこぼれてくる正樹は両手で顔を隠して丸まった。震える身体がまるでダンゴのようだ。
「あ。あ、ああ」
碧は真っ青になりどうすればいいのか、困惑した。困惑して、ただ、正樹を『本気』で傷つけたのだと知った。蒼に涙を浮かべて助けを求めるが、その視線は厳しい。正樹を泣かせてしまったのが、―碧だといっているのだ。
嫌いだって二人で行ったのに。嫌いになるって二人で行ったのに。その目はなに?
ヒステリックに叫びだしたかった、けど。
「ご、め。おれ、だ、って、みど――だ、…すき…ぅえ…」
断片的に聞こえる音―声に、碧が崩れ落ちた。
『大きくなって碧に俺以上に好きなやつがいなかったら嫁に貰ってやるよ』
『そんなのいないよっ。わたしが好きなのは一生正樹にいだけだよっ!だから、彼女なんて作っちゃだめだからねっ』
『彼女かー。部活もあるし、お前らの勉強も見てやりたいし。いまのところ付き合う暇ないな~』
『じゃあ、一生面倒見てっ!』
『だからな、碧。おまえ話し聞いてたか…おいっからまるな』
『お嫁さんになるなら、正樹にいをにいって呼ぶと他人行儀だよねっ。今日から正樹って呼ぶからっ!お嫁さんに絶対してね!』
『だから人の話、聞けーーー!!』
小さいころの約束。
正樹が中学1年生のときのものだ。それからずっと、『彼女の気配』なんて無かった。ずっと、部活動や学業に精を出し、駒形兄妹の面倒を見ていた。それが、新城正樹の日常だった。そこに『異物』は無かった。
――変化したのは、大学に行ってからだ。連絡が取れなくなった。連絡をよこさなくなった。不安だった、不安で心が破裂しそうだった。正樹は約束、覚えてる?今でも、これからも正樹が一番だって―。
正樹の一番、に。
「正樹兄さん…。いつもの碧のわがままですよ。そんな深刻に受け止めなくても――」
「ぐず…嫌いに、なるって言った…。おまえら…。やっぱり、兄貴じゃないから…こんなんなら、…きらわれるなら…。やっぱり―― お前らに一生会わないほうがよかったっ」
「そんなことない!大好きだよ!!」
「ちょっとした碧の冗談ですよ!?」
「ちょっと。蒼ひどいよ!わたし一人に責任押し付ける気?!」
「兄さんに対して言い過ぎだっ!」
正樹の言葉を全力で否定し、冗談だと叫ぶ兄妹が、責任を押し付け合い始めた。
はじめ、
「ひどいよ!蒼!」
「ひどいのは碧だろ?逆を考えてみろ。もしも碧が『男』になったらどうする?兄さんの気持ちも考えろ」
「っど、同性結婚できる海外で暮らすもん!」
同性恋愛に嫌悪を抱かなくとも、それが自分となれば理解の範疇を超える。虚勢をはって叫んでみるが、想像が付かない。いつも碧が思い描いていたのは、『男女』の恋愛だった。
ので、
「こんど、本で勉強するもんっ」
「しなくていい。あと、無理しなくていい。それに、まだ碧は兄さんに対して謝っていない」
切り捨てるように碧に言うと、碧は謝ってない?と首をかしげ…そして顔を歪めた。
言い過ぎた、とは思っていた。けど、碧にとって今までの不安が爆発したものだ。嘘じゃない。冗談じゃない。
――碧の、『ほんとう』の気持ちだ。
だから、
「いや。謝らない」
「碧!」
「だって先に言い始めたのは正樹じゃない!」
丸まっていた正樹が酷く震えた。ゆっくりと身を起こし、赤くはれた目元をこすりながら、
「そうだな。俺が悪かった―。ごめん、碧。蒼」
そう言って頭を下げた。その様に碧が息を呑む。息を呑んで、悔しそうに。
「……正樹はずるいよ。いつだって、いつだって」
「大好きだよ。碧」
そう言って、床にへたり込む碧の元に行き正樹は抱きしめた。正樹の匂いだ、と碧はすがりつくように抱きしめ返した。正樹はいつだって、自分が間違っていたら素直に謝る。決して見苦しい言い訳はしない。蒼と碧の手本になるように、憧れの兄貴であるために、いつだって気持ちいいほど真っ直ぐしている。
「ぅ…う…っ」
碧の知っている正樹そのものを、碧は大好きで――。
夢が、ずっと抱いてきた夢が叶わなくっても、やっぱり大好きで。
失恋じゃないのに。大好きだって言ってくれているのに、やっぱり――繋がりが無いことが一番悔しくて…。
「正樹の子供になるぅうう」
「……おいおい」
ぎゅぅうと、力いっぱい抱きしめた。呆れる正樹は、碧に厳しい言葉を投げかけていた蒼がほっと肩を落とす様を見てくすりと笑った。笑われたことに、羞恥で顔を赤らめ拗ねたような顔つきで正樹を見た。正樹は目元を拭って、
「大好きだよ、おまえらのことっ!」
笑顔で言った。
持ち帰ったバーガーやポテトを温めて三人で食べた。食べてから、碧がまずいまずいと騒ぎ始めた。
「そりゃ冷めればおいしくないだろう」
もともとおいしいものでもないし、と蒼がぼやく。すると正樹が目を輝かせて、「じゃあ腕を俺がうまいものを食わせてやる!」と立ち上がった。
が、冷蔵庫には正樹が思い浮かぶほどの『おいしいもの』が作れるだけの材料が無い。保冷室からたまねぎとじゃがいもとにんじんを取り出し、
「すまん。カレーで我慢してくれ」
と冷凍していたひき肉を取り出した。
似非キーマカレーを作ろう。そう思い立って野菜を油で揚げるためにサラダ油と油鍋を取り出した。
「手伝うっ」
碧が飛び跳ねるように素早く正樹の元にかけていくと、蒼は出し抜かれた形になって腰を上げた状態で固まる。
「蒼はそこで座ってるといいよ~」
役立たずだしね、と笑顔を向けられて引きつった顔つきを碧に見せた。碧は鼻を鳴らせて、先ほど責め立てたことへの意趣返しだと視線で睨んだ。口をへの字にして蒼はキッチンで鼻歌を歌いだした碧を憮然として見つめた。
碧が見て見てと包丁を使った野菜切りのパフォーマンスをして、正樹を驚かせ、正樹はカレー用の肉が無いからな~と残念そうに切った野菜を油で揚げようとし、長い前髪がうっとうしくなった。もうばれてしまったし、蒼や碧に隠す必要も無いということで、碧に油の温度を任せてクローゼットの衣装ケースから服を取り出した。蒼は正樹が徒然着替え始めたことに驚いていた。正樹は身体の線を隠すためのパーカーを脱ぎ、Tシャツにカーディガンを羽織る。ぼさぼさだった髪を整えて、うなじの辺りでひとくくりに縛り分厚い瓶のそこのような眼鏡を置いた。
「よしっ」
拳を握り締めてガッツポーズを取り、
「うまいの作るぞっ」
と意気込んだ。蒼は、ぽかんと口を開けてラグの上で着替え終わった正樹の様変わりした姿を見て驚いた。
「…兄さん?」
「ん?なんだ?」
正樹かと問うと、何だと返事が返ってきた。きたので、目の前の『女性』は正樹なのだろうと、着替え姿を見ていたのに服と眼鏡を取っただけでかなり違う。そういえば、と白い肌を思い出して思わず頬に熱が上がる。きょとんとした正樹の視線から逃れるように顔をそらすと、その態度が正樹は気に食わなかった。気に食わなかったので、
「なんだよ。なんかあるなら言えよな」
近づいて正樹のそらされた顔を両手で挟んで自分の方へ向けた。むっと眉を寄せた正樹の顔が目の前にあり、不満があるならいえよ、言え言え!と頬を伸ばしたりし始めた彼―彼女に思わず蒼は、
「んむっ?!」
その不満で尖らせた唇を塞いだ。
(4)
スキンシップをどこまでスキンシップだと捉えていいのか。
正樹はOL向けのセクハラ対応法が書かれた本を広げて、沈痛な表情を浮かべていた。
「ん?朝からまったく優れない顔してるけど、風邪引いた?」
相沢翔が本をじっと見ながら微動だしない正樹の額に手を当て、
「…熱は無いな」
「YES、NOを言っていない状態の肌の触れ合いはセクハラだぞ。翔」
「は?」
「セクハラ。セクシャルハラスメント。略して、セクハラ」
「……はあ?」
首を捻って翔はまったくこちらを見ずに、視線だけ本に向けている正樹に呆れたため息をついた。また、何を考えているのか、と。
「なんだ?電車で痴漢されたのか?」
「俺に痴漢するような男がいるわけねえだろ?大体、この姿でおさわりしたい男がどこにいる」
「ダサさここに極まり!を、極めた格好だからなぁ。正樹のそれ」
「この伊達瓶底眼鏡の魔よけ具合もいいぞ。かなり。誰も近寄ってこない」
そりゃそうだろう、と翔は心の中で突っ込んだ。長い前髪を下ろし、眼鏡かけて、パーカー姿とジーンズ姿。喋って付き合えばその人となりのよさは分かるが、既に見た目で駄目な人は多い。なので見た目は大切。それに対し、翔は常々、男のときに仲良くなってて良かったなぁと思っていた。まさしく、そういった人間に近寄らないタイプなのだ。彼は。
がっちりガードした人間とただ、付き合い(しゃべり)づらいなぁと思ってしまうのだ。
「それで?男も女も近寄らず、大学で地味君と通っている新城正樹くん。いったい何をそんなに真剣に読んでるのかな?」
会話に乗っては来るが、本から一切視線をはずさず、ページをめくり文字を追うその顔を上げさせるために本を抜き取った。慌てて奪おうとする正樹の顔をその大きな手の平でバスケットボールを掴むかのように鷲掴んだ。
「……、『セクハラの正しい対応法』って…。なんだこれ。なに、正樹、セクハラされたの?」
驚いて声を上げる翔に正樹は返せと声を張り上げて本を奪う。奪って、
「……俺が」
本を抱えて翔から顔を背けて小さな声で呟いた。
「…俺がセクハラしてたかもしれないっ」
そして本を持ったままテーブルに突っ伏した。突っ伏して、
「子供のときみたいなカンジで、顔をむにむしてたら怒られたっ」
「あー…」
思わず顔を引きつられせて翔は、
「そりゃ、子ども扱いされれば幼馴染君怒るんじゃないか?彼たしか、…18歳だっけ?」
「うん。中学生のときの蒼なんか、身長低くて朝礼とか体育の授業とか前の列でさあ。碧なんて正樹にい正樹にいって後ろ付いて回ってっいてっ。何すんだよっ!?」
昔の可愛い駒形兄妹を思い浮かべて顔を緩ませる正樹を現実に引き戻すため翔は容赦なくその頭を叩いた。
「スキンシップが過剰だとか言われたんだろ?それは直せ。あと、そのブラコンとシスコンも直したほうがいい。あと幼馴染妹ちゃんに対するロリコンもだ。絶対それはやばい絶対」
顔の緩み具合が変態だと指摘し、
「とりあえず…仲良くやってたみたいで良かったよ…。これでも心配してたんだぞ。俺」
あの兄妹超怖かったから!とは、口に出していえない。
苦笑いを浮かべて良かった良かったと連呼する翔に、正樹は小さく呟いた。
「仲良く、……か」
どんよりと黒い気配を背負って再びテーブルに突っ伏す。
「やっぱり、もめたのか?」
「…んー。体のことはそれなりに…。その後、蒼がさぁ」
「うんうん」
「俺にキスしてさー」
「うんうん、……はぁ!?」
「言うには、セクハラだって。顔むにむにするの」
「いや、ちょっとまて。まって。どういう状況でキス?え、この場合セクハラされたのは正樹じゃないのか?」
テーブルに突っ伏したままの正樹を無理やり起こし、状況を説明しろと詰め寄る。詰め寄るが、
「俺。顔むにむにするのとか髪の毛わしゃわしゃするのとか、すげー好きだったんだよなぁ…。もうしちゃいけないのかなぁ…。やっぱりアニキじゃないとかなぁー。あいつって俺がサッカーゴールにシュート入れるたびにすっげー目キラキラさせて、正樹兄さんすごい!すごい!って、いて、痛いって!!」
翔が数回、正樹の額をチョップした。強く叩かれてはいないがそれなりに痛いので抗議の声を上げると、
「正樹。俺はこの二年半お前の幼馴染のことは延々と聞かされたからそれはいいんだ。いいから、さっさと事情を説明しろっ」
説明?と首を捻る正樹の額を再びチョップする。
チョップし、
「正樹、男からキスされたんだぞ?!」
「は?蒼からキスされたんだけど?」
「その幼馴染の蒼君はなにか?実は正樹と同じ女なのか?」
「馬鹿言うな。蒼は立派な男だ!俺が保障する。ちゃんと付いてる。たぶん、あれはデカイはず、痛て、痛いってっ」
中学生まで一緒に風呂に入っていた正樹はそのときを思い出すようにサイズを手で表そうとし、再び翔にチョップされる。
たびたびチョップされるので正樹は翔を怒鳴ろうと息を吸い込み、
「そんなことは聞いてない!!」
先に怒鳴られ、
「うっるさい!あんたたち!」
翔『だけ』脳天にトレイの一撃を食らった。
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